自然数を表現可能でしかも無矛盾な体系
投稿者:河本
小林さん
不完全性定理 :
以前に、「自然数を表現できて、しかも無矛盾なことが示せる体系がある」と書き込みましたが、その解説始めようと思うのですが、おつき合い願えますか?
と言いつつすすめてしまっていますが、最初に記号論理学の記号たちの意味、お分かりになりますか?
もしご存じなければ、記号使わずに自然言語で解説します。
投稿者:小林
>河本さん
> 不完全性定理 :
> 以前に、「自然数を表現できて、しかも無矛盾なことが示せる体系がある」
> と書き込みましたが、その解説始めようと思うのですが、おつき合い願えま
> すか?
是非お願いします。\(^o^)/
> と言いつつすすめてしまっていますが、最初に記号論理学の記号たちの意味、お分かりになりますか?
たぶんわかると思います。忘れているかもしれませんが、調べれば思い出すと
思います。
> もしご存じなければ、記号使わずに自然言語で解説します。
もし余裕がありましたら、自然言語での解説もお願いします。
ところで、無矛盾であるということはその体系では公理の数は有限個であると
いうことですね。
ちょっとわくわくしています。
poetic class theory 投稿者:河本 投稿日: 3月21日(日)14時36分41秒
小林さん
>ところで、無矛盾であるということはその体系では公理の数は有限個であると
いうことですね。
有限にすることも可能だと思います。
無矛盾性と公理の数に関係があるのでしょうか?詳しくありません。
短く解説可能ならお願いします。もし無理なら、何か良い本をおおしえ下さい。
公理 :
FCの公理は次の三つです。
A. ma ∀A∀B∀x∀y A ma x ∧ B ma y ∧ A=B ⇒ x=y
A. el ∀A∀B (∀a a ∈ A ⇔ a ∈ B) ⇒ A=B
A.F ∃x∃B (∀a a ∈ B ⇔ F(a)) ∧ B ma x
FCはFree Classの頭文字です。
自由群が全ての群を表現できるように、「自由クラス」上に全ての集合論が表現可能なことをあらわす名前です。
A, B, C, ...は「集まり」のための変数です。ギリシャ文字を使うこともあります。
a, b, c, .... は「クラス」のための変数です。
FCの「集まり」も「クラス」も、ZFのクラスに似ていますが、それぞれ次のように異なります。
FCの「集まり」はけっして要素になりません。「クラス」のほうは全て要素になります。
これに対し、ZFのクラスはその一部が要素になり得ます。
*ZFは普通の集合論のこと。
A.maは”「集まり」はただ一つの「クラス」を作る ”という公理です。
これは関数の性質ですが、事実、集合Sとその上の関数fでFCのmodelを作ることが可能です。
例 : Sとして整数の集合Zをとる
「集まり」を整数の集合、クラスを整数、Zの部分集合からZへの関数fを{n_i}→Σn_i や{n_i}→max[n_i]とする。
これらも使い道はありそうですが、FCの本質を表現してはいないので、自然言語を用いた例で解説します。
A.elは”「集まり」はその要素によって決定される”という公理です。
ZFのクラスと同じ性質ですが、FCの「集まり」はそのままでは要素になり得ません。
A.Fは”性質Fを満たすクラスを集めればある「集まり」が出来、その「集まり」はあるクラスを作る”ことを各Fごとに表している公理群です。
poetic class theory 二 投稿者:河本 投稿日: 3月21日(日)14時47分11秒
自然言語を用いた考察 :
シナトラの唄う「Fly me to the moon」の歌詞の一節です。
Fly me to the moon,
And let me play among the stars
Let me see what spring is like on Jupiter and Mars
In other words: Hold my hand!
In other words: Darling kiss me!
アポロ8が月へ向かうのを生中継している11PMの中で、由美かおるが3人の宇宙飛行士を見送りながらこの歌を歌っていた。>何号だったか定かでない。
この歌詞を言語学の標準の方法で分析してみると。>分析と言うほどではなく、ただ形式化するだけ。本質だけを議論するのでかなり話を単純にします
音声で表される言語{Fly me to the moon}、その文章が表現する意味[私を月まで飛ばすイメージ、あるいは本当にそういう行動]、唄っている彼女の気持ちを表す言語{Hold my hand! , Darling kiss me!}、この文章が表現する意味[手を取って、キスをしてダーリン。こっちはイメージではなく行動でしょう]、前者の言語から後者の言語への「比喩」と呼ばれる写像、この写像によって引き起こされる音声言語の意味から彼女の気持ちへの対応関係、こんなところでしょうか。
この方法は、自然ですし有効ではあるのでしょう。
しかし、ぼくはややこしすぎると思う。
もっと単純に記述可能なのではないか?
分析すべきは{Fly me to the moon}という文章でしょう。
{Hold my hand! , Darling kiss me!}のほうは気持ちを解説しているのだから、前の文章に対しては「メタ言語」なのではないか。
さらに、文章とその意味はほぼ一対一に対応しているのだから、両者を同一視してもよいのではないか。
また、「標準の文法」ではなく「彼女の文法」を形式化すればよいのではないか。
などなど考慮すると次のようになる。
彼女が言った文章{Fly me to the moon}は、彼女の気持ちの中では、[手を取って、キスをしてダーリン]という概念になっている。
ようするに、彼女のお相手はこの文章を聞けば、彼女の気持ちをこう察して行動に移す、というのが正しい判断なのでしょう。
これらを形式化すると、
概念Fly、 me、 to、 the、 moonたちは、文章S={Fly me to the moon}の要素であり、文章S={Fly me to the moon}は概念I=[手を取って、キスをしてダーリン]を作る。
Iの説明にメタ言語として日本語を使っています。
論理式にすると、
Fly ∈ S、me ∈ S、to∈ S、the ∈ S、moon ∈ S、そして、S ma I
言語学の文章・概念はクラス理論の「集まり」・「クラス」に対応します。
従って、概念∈文章、文章ma概念のそれぞれは、クラス ∈集まり、集まりma クラスとなります。
公理のまとめ :
前の書き込みがまとめになっているので引用します。
−−−−−−−−−−
FCのクラスはその名に反して、ZFで「クラス」と呼ばれるものとは違い、要素を持っていません。
何の構造もないだたの「一点」です。>イメージです
ZFで集合を集められるように、FCにおいてもクラスを集めることが可能です。
ここで「クラス」という言葉を使っていますが、これでよいのです。
ZFでは「集合」しか集めては行けませんが、FCではどんなクラスを集めても構いません。
ZFでは集合を集めて出来たクラスがもし集合であるなら、再びそのクラスを集める対象としますが、FCではクラスを集めた「集まり」はそのままではまだ集める対象になっていません。>クラスではないので「集まり」と呼ぶ
「集まり」の要素たちが溶け合い一つになって「クラス」になると、再びそのクラスを集める対象とすることが出来ます。>この過程を記述するのが述語「m」です。mはmakeの頭文字で、α m cは「αがcを作る」を表現しています
ZFで「x∈c、ただしc={x、y、z}」という論理式に対応する概念は、FCでは「x∈β、ただしβ={x、y、z}、そしてβ m c」という概念になります。
−−−−−−−−−−
*変数A,B,C,....の変わりに、α,β,γ,....を使っていました。
述語maの変わりにmを使っていた。英語ではma、日本語ではmと書いています。
次回はFCとZFの対応について。
ツッコミ歓迎。
分からないこと気軽に聞いて下さい。
Re: poetic class theory 投稿者:小林泰三 投稿日: 3月22日(月)00時56分22秒
>河本さん
> 小林さん
> >ところで、無矛盾であるということはその体系では公理の数は有限個であると
> いうことですね。
>
> 有限にすることも可能だと思います。
>
> 無矛盾性と公理の数に関係があるのでしょうか?詳しくありません。
> 短く解説可能ならお願いします。もし無理なら、何か良い本をおおしえ下さい。
おっと、無矛盾性というのは、「互いに矛盾する定理を証明することが不可能
であること」でしたね。
公理の数云々は僕の勘違いです。お忘れください。
失礼いたしました。
FC の解説ありがとうございました。
これからじっくり読ませていただこうと思いますが、述語 ma がキーになる概
念のようですね。
> これらを形式化すると、
> 概念Fly、 me、 to、 the、 moonたちは、文章S={Fly me to the moon}の要素であり、文章S={Fly me to the moon}は概念I=[手を取って、キスをしてダーリン]を作る。
> Iの説明にメタ言語として日本語を使っています。
Iには、手、を、取っ、て、等が要素として含まれるように見えるけれど、こ
れはメタ言語なので、実際にはIは一体であり、要素は存在しない、という理
解でよろしいでしょうか?
make 投稿者:河本 投稿日: 3月22日(月)17時29分34秒
小林さん
>これからじっくり読ませていただこうと思いますが、述語 ma がキーになる概
念のようですね。
そのとうりです。
FCの基本は難しくないと思うのです。
それは「ローレンツ変換が難しくない」というのと同じで、ただしニュートン力学の見方を捨ててしまわなければならないように、普通の集合の見方を捨てなければなりません。
>Iには、手、を、取っ、て、等が要素として含まれるように見えるけれど、こ
れはメタ言語なので、実際にはIは一体であり、要素は存在しない、という理
解でよろしいでしょうか?
全く正しい理解です。 (^^)
ZFとFCの対応 投稿者:河本 投稿日: 3月30日(火)15時34分40秒
形式 :
普通の集合論は形式として閉じていない。
例えば最初に集合a,b,c,....が存在したとすると、{a}、{{a}}、{a,b}、{a,{b},{{c}}}、....など限りなくクラスを生成することが出来ます。
これに対してFCでは、最初にクラスa,b,c,....が存在したとして、{a}、{{a}}、{a,b}、{a,{b},{{c}}}、....等の「集まり」が作るクラスは最初に存在するクラスの中の一つですから、「無限にクラスが生成されて行く」ということはなく、閉じた形式で表現されます。
これは理論の全体像をイメージするのが容易であるというメリットがあります。
ZFの論理式とFCの論理式の間の対応 :
ZF FC
x∈y ←→ ∃B(x∈ B∧ B ma y) −TR− *TRはtranslationの頭文字
ZFで「xがyの要素である」という論理式に対応するFCの論理式は「xを要素とするある集まりがyを作る」となります。
x∈x :
ZFでは「自分を要素とする」という集合は非常におかしなものですが、FCではそういうクラスを理解するのは易しいことです。
>ZF
{x,y,z}=xだとすると、確かにx∈xですが、{x,y,z}のxを{x,y,z}で置きかえると、{{x,y,z},y,z}となり、さらにxを{x,y,z}で置きかえると、{{{x,y,z},y,z},y,z}となって、xは無限に続く入れ子構造のクラスだと分かりますが、理解の難しい対象です。
>FC
{x,y,z} ma x とすると、TRのBを{x,y,z}とすれば、この式がZFのx∈xに対応した論理式であることが分かります。
この式は単に集まり{x,y,z}の作るクラスがその要素であったというだけで、xは構造を持たない=要素を持たないただの点ですから、形式が入れ子になってややこしくなったりはしません。
もちろんxのZFにおける事情は表現されてはいるのですが、FCでは見通しよいことが議論を進めていくとお分かりになると思います。
矛盾の解消 投稿者:河本 投稿日: 4月 2日(金)16時18分36秒
ラッセルのクラス :
ラッセルの矛盾をNSで表現するとこのようになります。
*NSはnaive set theoryの頭文字。
∀a a ∈ R ⇔ ¬ a ∈ a
この論理式を自然言語で表現すると「クラスRの要素であることは、自分を要素としないことである」となります。
クラスRは自分を要素としないクラスを全部集めたクラスである、と言うことも出来ます。
ここで、変数aにRを代入してみます。
a=R とすると、
R ∈ R ⇔ ¬ R ∈ R
これはある命題とその否定が等価ということですから矛盾です。
ラッセルは論理式三つで数学の基礎を崩壊させたわけです。>たいしたもんじゃ (^^)
クラスr_0 :
クラスRについてFCで考察してみることにします。
∀a a ∈ R_0 ⇔ ¬(∃B a∈ B∧ B ma a ) −0−
右辺の括弧の中の式は、TRよりZFではa∈ aを表しますから、右辺はその否定で¬ a ∈ a です。
確かに集まりR_0は、自分を要素としないクラスを全部集めた集まりで、ZFの論理式に対応しています。
*R_0と添え字が付いている文字は、ある集まりを表す定数です。
この集まりR_0がクラスr_0を作ります。
*r_0と添え字が付いている文字は、あるクラスを表す定数です。
式で書くと、
R_0 ma r_0 −1−
ここでNSと同じように、変数aにr_0を代入してみます。
a=r_0とすると、0式は
r_0 ∈ R_0 ⇔ ¬(∃B r_0∈ B∧ B ma r_0 ) −2−
もし、
r_0 ∈ R_0 が真 −3−
と仮定すると、1式と合わせて、
r_0 ∈ R_0 ∧ R_0 ma r_0 が真
ゆえに、
∃B r_0 ∈ B ∧ B ma r_0 が真 −4−
一方、2式の「⇔」の両辺の真偽値は同じでなければなりません。
仮定から、
r_0 ∈ R_0 が真
なら、
¬(∃B r_0∈ B ∧ B ma r_0 ) も真 −5−
となり、4式と5式を比べると、論理式とその否定が真ですから矛盾です。
3式を仮定して矛盾になったのですから、3式の否定が得られます。
ゆえに、
¬r_0 ∈ R_0 −6−
さらに、2式の「⇔」の両辺の真偽値は、同じでなければなりませんから、
右辺の¬(∃B r_0∈ B∧ B ma r_0 )も否定されて、
∃B r_0∈ B∧ B ma r_0 −7−
結果として6式と7式が得られることになります。
このようにNSでは矛盾を導くクラスRも、FCで考察すると矛盾はなく、二式が得られるだけです。
>まとめ
得られた結果を自然言語で表現します。
「自分を要素としないクラス全部を集めたクラスRは、自分を要素とするのか?」という問いに対する答えは、こうなります。
NSでは、「矛盾を起こし、答えられない」。
FCでは、「自分を要素とする」。 >7式
ちなみに、ZFでは「自分を要素としない」です。>Rが集合でなくなる
集合論とか丸鋸氏とか 投稿者:小林泰三 投稿日: 4月 4日(日)23時47分35秒
>河本さん
>ラッセルの矛盾
おお。長年の疑問が少しだけすっきりしました。
従来の集合論の公理系は不完全だったと理解していいのでしょうか?
また、FC で自然数を定義するのは NS とよく似た手続きでいいのでしょ
うか?
ふつうの集合論 投稿者:河本 投稿日: 4月 8日(木)16時53分50秒
小林さん
>おお。長年の疑問が少しだけすっきりしました。
>従来の集合論の公理系は不完全だったと理解していいのでしょうか?
クラスや集合という概念の本来の姿を正確に捉えていなかった、と言うことができるでしょう。
NS・ZFでは概念の細やかさが不足しているのです。
例えば6式は、TRによらないので正式な対応ではないのですが、無理にNSで読めば、
¬ R ∈ R
です。
一方、7式はTRより、
R ∈ R
です。
FCでは異なる二つの式が、NS・ZFでは論理式の精密さが足りず区別不可能であり、その結果同じ式の否定・肯定が導かれ矛盾を導くわけです。
ただし、ご存じのように「不完全」という言葉は、論理学では「公理系から導けない真の命題がある」ことを表現しますから、「自然数を表現できる」集合論の公理系は、「不完全性定理」より無矛盾なら不完全です。
これは欠点ではありません。>完全なら矛盾している
ZFの上に現代数学のほぼ全ては表現できているので、良い公理系であることは確かです。
現代の数学者達は、ZFの公理系が提案されて以降、クラス・集合に対して疑問は持っていないようですから、何か疑問をお持ちの小林さんは数学者たちより感性が鋭いのではないでしょうか。
何について疑問だったのか、ご説明願えますか?
FCで分析すれば小林さんの疑問、「少し」でなく「全部」解決可能と思います。
>また、FC で自然数を定義するのは NS とよく似た手続きでいいのでしょ
>うか?
自然数を定義する方法は、「推移性」と「整列可能性」を持つクラスとして「順序数」を定義し、さらに「0∈K ∧ n∈K → n+1∈K」となる順序数Kたちの内最小のもの、とするのが普通ですが、もっと易しく「0は自然数 ∧ nが自然数ならn+1も自然数」として解説します。>次回
Re: ふつうの集合論 投稿者:小林泰三 投稿日: 4月 9日(金)20時09分41秒
>河本さん
> 現代の数学者達は、ZFの公理系が提案されて以降、クラス・集合に対し
> て疑問は持っていないようですから、何か疑問をお持ちの小林さんは数学者
> たちより感性が鋭いのではないでしょうか。
> 何について疑問だったのか、ご説明願えますか?
> FCで分析すれば小林さんの疑問、「少し」でなく「全部」解決可能と思
> います。
論理式で表現する自信がないので、自然言語で説明します。
集合Aと集合Bについて、
(1) A⊂B
と
(2) A∈B
は違うことを表しています。
しかし、「物理的な」というか、「イメージ的な」というか、うまい言葉が見
付かりませんが、直感的にこの2つの違いをうまく表現できるモデルが思い付
けないことが気持ち悪かったのです。
例えば、x∈Aが成り立つ場合、(1) が成立すれば、x∈Bである訳ですが、(2)
が成立しても、x∈Bであるとは限りません。しかし、イメージの上では、入
れ子になって、集合Bという構造の中にxが存在しているように「感じる」の
です。
つまり、Aという領域の中に、Bという領域がぷかぷかと浮いていて、その中
に要素Aが存在するというイメージが (1) と (2) に共通してしまうというこ
とが自分で気持ち悪かったのです。
#「領域」という単語は日常的な意味で使ってます。
クラゲなす漂える 投稿者:河本 投稿日: 4月12日(月)13時20分54秒
小林さん
>つまり、Aという領域の中に、Bという領域がぷかぷかと浮いていて、その中
>に要素Aが存在するというイメージが (1) と (2) に共通してしまうというこ
>とが自分で気持ち悪かったのです。
なんだかクラゲが浮かんでいるよう。 (^o^)
>⊂と∈
集合論に詳しい人は「部分集合と要素の区別なんて基本なのに」と思うかも知れませんが、結構いろいろな問題が検討可能です。
1.表現の問題
論理式では区別は容易ですが、図に書いた場合、もし集合を○で表現すると、集合Xの丸の中に描いた集合Yの丸は集合Xの部分を囲った丸なのか、Xの要素としての集合Yを表しているのかが分からない。
表現の曖昧性が問題ですね。
この問題はFCで100%解決可能です。>クラスや集まりの関係を表現するのが容易
2.自然言語では両者の区別が定かではない
大阪は関西の要素か?一部か?
数学は科学の要素か?一部か?
カツはカツ丼の要素か?一部か?
会話の大阪弁は物語を記述する言語の要素か?一部か?
3.順序数の場合両者は同じなので区別しなくもよい
「推移性」と呼ばれる順序数の性質は、
X∈Y ∧ Y∈Z → X∈Z
というものですが、これは「Zの要素はZの部分集合である」と言っているわけで、要素と部分集合がほぼ同じことを表しています。
4.小林さんにとって両者を容易に区別出来るイメージor喩えがあるだろうか?
1.についてはいつかHPで図を添えて解説します。
2.とか3.の理由のせいで、「要素と部分集合が似ているなあ」と思う人が居ても不思議ではないですね。
4.の解決策 :
「クラゲと触手」の喩えでよく分かるのではないでしょうか?
o クラゲを「物体」として見ると
海の一部分がクラゲ、クラゲの一部分が触手。
触手は海の部分集合である。
o クラゲを「機能」として見ると
海の一要素として生命であるクラゲが存在し、生命の一要素として器官である触手が存在する。
触手は海の要素ではない。>海は触手を持っていない。ソラリスは持っているよーな (^^)
「絵」としては同じだが、「見方」を変えると、「要素」や「部分集合」になる。
Re: クラゲなす漂える (1/2) 投稿者:小林泰三 投稿日: 4月17日(土)00時59分47秒
>河本さん
> 小林さん
> >つまり、Aという領域の中に、Bという領域がぷかぷかと浮いていて、その中
> >に要素Aが存在するというイメージが (1) と (2) に共通してしまうというこ
> >とが自分で気持ち悪かったのです。
> なんだかクラゲが浮かんでいるよう。 (^o^)
『古事記』の冒頭部分にありましたね。
> >⊂と∈
> 集合論に詳しい人は「部分集合と要素の区別なんて基本なのに」と思うか
> も知れませんが、結構いろいろな問題が検討可能です。
僕も違いがあることは知っているのですが、何が違うのかと問われると、たぶ
ん明確に答えられないと思うのです。
> 1.表現の問題
> 論理式では区別は容易ですが、図に書いた場合、もし集合を○で表現する
> と、集合Xの丸の中に描いた集合Yの丸は集合Xの部分を囲った丸なのか、
> Xの要素としての集合Yを表しているのかが分からない。
> 表現の曖昧性が問題ですね。
> この問題はFCで100%解決可能です。>クラスや集まりの関係を表現
> するのが容易
そうですね。
> 2.自然言語では両者の区別が定かではない
> 大阪は関西の要素か?一部か?
> 数学は科学の要素か?一部か?
> カツはカツ丼の要素か?一部か?
> 会話の大阪弁は物語を記述する言語の要素か?一部か?
従来の集合の定義が曖昧であるところが問題であるような気がします。
> 3.順序数の場合両者は同じなので区別しなくもよい
> 「推移性」と呼ばれる順序数の性質は、
> X∈Y ∧ Y∈Z → X∈Z
> というものですが、これは「Zの要素はZの部分集合である」と言ってい
> るわけで、要素と部分集合がほぼ同じことを表しています。
なるほど。これは面白いですね。
普通の表現にすると、
X < Y ∧ Y < Z → X < Z
ということでいいですか?
> 4.小林さんにとって両者を容易に区別出来るイメージor喩えがあるだろ
> うか?
>
> 1.についてはいつかHPで図を添えて解説します。
> 2.とか3.の理由のせいで、「要素と部分集合が似ているなあ」と思う
> 人が居ても不思議ではないですね。
> 4.の解決策 :
> 「クラゲと触手」の喩えでよく分かるのではないでしょうか?
> o クラゲを「物体」として見ると
> 海の一部分がクラゲ、クラゲの一部分が触手。
> 触手は海の部分集合である。
> o クラゲを「機能」として見ると
> 海の一要素として生命であるクラゲが存在し、生命の一要素として器官で
> ある触手が存在する。
> 触手は海の要素ではない。>海は触手を持っていない。ソラリスは持って
> いるよーな (^^)
>
> 「絵」としては同じだが、「見方」を変えると、「要素」や「部分集合」
> になる。
要素には部分がないと考えると、しっくりときます。
そういう意味では、集合が要素になりうるというのは、馴染めない考え方です。
異化 投稿者:修理屋ア 投稿日: 4月18日(日)10時47分37秒
うう、おふたりの話に、全然ついていけない(^^;)
レス一個と速報 投稿者:河本 投稿日: 4月18日(日)15時08分31秒
修理屋アさん
>うう、おふたりの話に、全然ついていけない(^^;)
だれも置いていく気はありません。 (^^;)
疑問があれば聞いて下さい。
要素の数 投稿者:河本 投稿日: 4月21日(水)15時58分24秒
部分クラスのクラス :
自然数について考察する前に、あるクラスCよりその部分クラス全てのクラスP_cのほうが要素の数が多いことを証明します。
これは「対角線論法」と呼ばれる方法で、整数より実数の方が濃度が大きいことを示す「ベルンシュタインの定理」と見た目は異なりますが等価なものです。
CとP_cの間に一対一の対応fがあったとして、次のようなクラスを考えます。 −H−
f
C → P_c
∀a a ∈ K ⇔ ¬a∈f(a)∧ a∈C −0−
Kは、Cの要素の内、その要素に対応する部分クラスに含まれないもの全部を集めたクラスです。
ここで変数aにKのf’による値を代入してみます。
*fの逆写像をf’と書きます。当然f(f’(X))=Xです、
a=f’(K)
f’(K)∈ K ⇔ ¬f’(K)∈f(f’(K))∧ f’(K)∈C
f(f’(K))=K だから、
f’(K)∈ K ⇔ ¬f’(K)∈K ∧ f’(K)∈C
故に
¬ f’(K)∈C −1−
一方、
Kは0式よりCの部分クラスですから、仮定HよりKのf’による値はCの中に存在しなければ成りません。
故に
f’(K)∈C −2−
1、2式を比べて矛盾。
すなわち仮定Hが矛盾を導いたのですから、
¬H
「あるクラスCとその部分クラスのクラスP_cの間には一対一の対応fがない」
となります。式で書くと、
¬#C=#P_c
※#XはXの要素の数
#C≦#P_c を示すのは容易ですから、
したがって、
#C<#P_c
が得られます。
このように、「対角線論法」はいろいろな結果を導くことの可能な方法なのですが、実は「両刃の剣」なのです。
いろいろ導けるどころか矛盾まで導いてしまいます。
ZFでは「Set」という述語を使い矛盾を回避しているのですが、FCでは「対角線論法」自体を否定してしまいます。>次回
握力78Kg 投稿者:修理屋ア 投稿日: 4月23日(金)23時31分27秒
> だれも置いていく気はありません。 (^^;)
>疑問があれば聞いて下さい。
お二人が、楽しそうだなぁ、、という雰囲気は伝わってきますので大丈夫です(^^)
気にせず、続けてください。
小林さん
>> >⊂と∈
>> 集合論に詳しい人は「部分集合と要素の区別なんて基本なのに」と思うか
>> も知れませんが、結構いろいろな問題が検討可能です。
>僕も違いがあることは知っているのですが、何が違うのかと問われると、たぶん明確
>に答えられないと思うのです。
これ謙遜でなくて本当だと少し困ります。>ZFを基本としている現代数学としては
ある集合Cの要素たちx、y、zがそのままだと三つの要素達、そしてそれらをまとめるとCの部分集合P={x、y、z}となるわけです。
この両者を区別しないと言うことは、集合{z、y、z}が依然として「要素たちx、y、z」であり、「集合」というまとまった概念とは思えない、すなわち{x、y、z}が集合Pとなるための過程が必要ということですから、これはFCのコンセプトと同じです。
>従来の集合の定義が曖昧であるところが問題であるような気がします。
そんなことはありません。ZFの集合の定義には曖昧性はありません。
自然言語では、ということですか?
>普通の表現にすると、
>X < Y ∧ Y < Z → X < Z
>ということでいいですか?
そうです。
>要素には部分がないと考えると、しっくりときます。
>そういう意味では、集合が要素になりうるというのは、馴染めない考え方です。
こんなこともし数学科の学生が考えていたら落第確実です。 (^^;)
FCの世界ではさほど間違っていません。
小林さんのご意見は、なんだかZFよりFCに賛成しているように感じますが、ZFは「ニュートン力学が正しい」ように正しいと思います。>限定された範囲では全く正しい
あまり標準の集合論=ZFを否定しないで下さい。
理系の人々に知られると小林さんはMSだと思われてしまいます。
コウ博士はなんと思われても平気みたいです。
Re: Mersenne 対 Fermat 投稿者:小林泰三 投稿日: 5月 3日(月)00時04分33秒
>河本さん
> >> >⊂と∈
> >> 集合論に詳しい人は「部分集合と要素の区別なんて基本なのに」と思うか
> >> も知れませんが、結構いろいろな問題が検討可能です。
> >僕も違いがあることは知っているのですが、何が違うのかと問われると、たぶん明確
> >に答えられないと思うのです。
>
> これ謙遜でなくて本当だと少し困ります。>ZFを基本としている現代数学としては
それが謙遜でないので、困っているのですが。(^^;)
> ある集合Cの要素たちx、y、zがそのままだと三つの要素達、そしてそ
> れらをまとめるとCの部分集合P={x、y、z}となるわけです。
>
> この両者を区別しないと言うことは、集合{z、y、z}が依然として
> 「要素たちx、y、z」であり、「集合」というまとまった概念とは思えな
> い、すなわち{x、y、z}が集合Pとなるための過程が必要ということで
> すから、これはFCのコンセプトと同じです。
しかし、C の部分集合 P の要素である x、y、z は C の別の部分集合の要
素になりうるわけですね。つまり、x、y、z はそのまま3つの要素だと考える
方がすっきりするのです。
> >従来の集合の定義が曖昧であるところが問題であるような気がします。
>
> そんなことはありません。ZFの集合の定義には曖昧性はありません。
> 自然言語では、ということですか?
ZF は「集合」の範囲を限定して、矛盾から逃げているようにも思ええます。
「すべての集合」を集めたものは「集合」ではないとすると、もはや ZF の
範疇外と考えていいのでしょうか?
> >要素には部分がないと考えると、しっくりときます。
> >そういう意味では、集合が要素になりうるというのは、馴染めない考え方です。
>
> こんなこともし数学科の学生が考えていたら落第確実です。 (^^;)
> FCの世界ではさほど間違っていません。
>
> 小林さんのご意見は、なんだかZFよりFCに賛成しているように感じま
> すが、ZFは「ニュートン力学が正しい」ように正しいと思います。>限定
> された範囲では全く正しい
>
> あまり標準の集合論=ZFを否定しないで下さい。
>
> 理系の人々に知られると小林さんはMSだと思われてしまいます。
> コウ博士はなんと思われても平気みたいです。
数学と自然科学 (という言い方に語弊あるなら、数学と非数学自然科学) の間
には大きな違いがあります。
自然科学においてはどんなに完璧な理論であっても、現実の世界を記述できな
ければ、正しい理論と看做せません。逆に言うと、ある理論が正しいかどうか
は永久に知ることはできません。我々にできることは実験や観測を積み重ね、
その理論の正しらしさを補強していくだけです。
それに対し、数学の理論はある公理系から演繹的に構築しているため、その正
しさは保証されている。つまり、別々の公理系から生まれた理論は互いに矛盾
していたとしても、それぞれの公理系内においては正しいと言えるのではない
でしょうか?
僕は、このような正しさの判定基準が数学と非数学自然科学では違うと考え、
それゆえ数学は自然科学でないと考えているのです。
いろいろ 投稿者:河本 投稿日: 5月 4日(火)19時01分1秒
小林さん
事実に対応しない理論を支持している者をMSと呼ぶとしたら、数学の世界には記述すべき事実がない、従って矛盾さえしていなければ如何なる非標準理論を支持しようが、MSと呼ばれることはない、ゆえにFCを堂々と肯定しても大丈夫。
このようなご意見と思ってよろしいでしょうか?
もしそうだとしたら、ぼくもほとんど賛成です。
たしかに、変な理論・意外な結果のほうが歓迎される空気が数学にはありますね。
内湯戦争 投稿者:河本 投稿日: 5月 7日(金)15時40分9秒
小林さん
>しかし、C の部分集合 P の要素である x、y、z は C の別の部分集合の要
>素になりうるわけですね。つまり、x、y、z はそのまま3つの要素だと考える
>方がすっきりするのです。
この文章の中で、「部分集合」という言葉を正確に使われているので、その概念を理解されているのだと想像します。
Re: いろいろ 投稿者:小林泰三 投稿日: 5月 10日(月)00時41分59秒
>河本さん
> 小林さん
> 事実に対応しない理論を支持している者をMSと呼ぶとしたら、数学の世
> 界には記述すべき事実がない、従って矛盾さえしていなければ如何なる非標
> 準理論を支持しようが、MSと呼ばれることはない、ゆえにFCを堂々と肯
> 定しても大丈夫。
> このようなご意見と思ってよろしいでしょうか?
その通りです。でも、同じことを自然科学全体にも適用しようとする人が多い
のが不思議です。
> >しかし、C の部分集合 P の要素である x、y、z は C の別の部分集合の要
> >素になりうるわけですね。つまり、x、y、z はそのまま3つの要素だと考える
> >方がすっきりするのです。
>
> この文章の中で、「部分集合」という言葉を正確に使われているので、そ
> の概念を理解されているのだと想像します。
たぶん概念は理解しているとは思うのですが、集合論は時々気持ちの悪い感じ
がするのです。
例えば「全体集合」という概念がありますね。
これはつまり「今の話は全部この集合の中で収まっているってことでよろしく」
ということなんでしょうが、どうも気持ちが悪いのです。
でも、全体集合を決めておかないと、補集合の定義ができないので困りますね。
ところで、集合の「交わり」「結び」が論理式の「論理積」「論理和」に対応
するように、補集合は論理式の「否定」に対応していると考えていいんですね。
#ちょっと自信ないです。
とすると、全体集合を決めてないのに、無闇に命題の否定を取り扱っていいの
かという疑問を昔から持っています。
例えば、A→B というのは、「『Aの否定』あるいは『B』」ということで
すが、いちいち全体集合を決めておかなくてもいいのかということです。
Aを「日本人」、Bを「地球人」とした場合、全体集合が定義されていなけれ
ば、「Aの否定」の範囲が不明確ですよね。
何か勘違いをしているような気がするのですが、どうもはっきりせず、気持ち
悪いのです。
数学速報 投稿者:河本 投稿日: 5月 13日(木)16時30分21秒
小林さん
>たぶん概念は理解しているとは思うのですが、集合論は時々気持ちの悪い感じ
>がするのです。
>ところで、集合の「交わり」「結び」が論理式の「論理積」「論理和」に対応
>するように、補集合は論理式の「否定」に対応していると考えていいんですね。
ひとの感覚を理解するのは難しいですね。
後の方の質問の答えは、ZFの見方からするとOKです。
小林さんの疑問は、
1.全クラスという概念は怪しい
2.命題とそれが真となる対象を集めたクラスを対応させると、全クラスや補クラスに対応するトートロジーや否定という概念は怪しい。
こんな風でよいでしょうか。
小林さんの使われた言葉「全集合」は確かに怪しくて、この存在を仮定すると矛盾が導かれます。
しかし、集めてもよい対象を表す「Set」という述語を用いて、矛盾は回避されています。 >後で解説
従って、1.はZFでは一応交わしています。
2.の方の疑問は、基礎論で対立している立場の一方の側の意見を表しています。
細かな違いを別として、
{論理主義、古典論理、リアリズム、プラトニズム、神の視点}と、
{有限の立場、構成主義、直観主義論理、人間の視点}
の立場の違いです。
2.は後者の意見です。
例えば、命題「X V ¬X」を認めなかったりします。
ぼくは前者の立場です。
ようするに、「全クラス」やそれに関係した概念を疑う立場も可能なのです。
矛盾の回避 :
「Set」という述語を用いてRusselの示した矛盾を解決・回避したのが、数学の
あらゆる場面で顔を現すあのノイマンです。>ゲーム理論も彼が創造した
彼の考えは、「クラスには要素になるものとならないものがある」というものです。
要素になるものを「Set」=集合と呼ぶことにしたのです。
もう一度ラッセルのクラスRの定義を書くと、
∀a a ∈ R ⇔ ¬ a ∈ a −0−
自然言語で言うと、クラスRは「自分を要素としないクラスを全部集めたクラスである」ですが、ノイマンは何かの条件でクラスを「全て」集めてはいけない、要素になりうるものだけを集めよ、と言うのです。
0式はこうでなければならないのです。
∀a a ∈ R ⇔ ¬ a ∈ a ∧ Set a −1−
自然言語で言うと、クラスRは「自分を要素としないクラスでしかもSetであるものを全部集めたクラスである」となります。
変数aにRを代入してみます。
a=R とすると、
R ∈ R ⇔ ¬ R ∈ R ∧ Set R
この式からは、
¬ R ∈ R 、 ¬Set R
が得られ、矛盾は避けられます。
結果を見ると、¬Set R ですから、Rは大き過ぎてもはやSetにはなり得ないことが分かります。
「Set」 :
クラスRはもはやSetになり得ない、と絶対的な言い方をしていますが、実はそうではなくて、Setとは「ZFにとって何が対象なのか?」、あるいは「要素にしたいものは何か?」を定義する述語なのです。
クラスRや全クラスUは「Setでない」ことが分かりますが、あるクラスが「Setである」ことはなかなか分かりません。
ZFの公理……ZermeloとFrankelが提案したからこう呼ばれる……は10個ありますが、「何がSetか」を定義していると言うこともできます。
Re: 数学速報 投稿者:小林泰三 投稿日: 5月15日(土)19時41分10秒
>河本さん
> 小林さんの疑問は、
> 1.全クラスという概念は怪しい
> 2.命題とそれが真となる対象を集めたクラスを対応させると、全クラス
> や補クラスに対応するトートロジーや否定という概念は怪しい。
> こんな風でよいでしょうか。
拙い文章を要領よくまとめていただき、ありがとうございます。
> 小林さんの使われた言葉「全集合」は確かに怪しくて、この存在を仮定す
> ると矛盾が導かれます。
> しかし、集めてもよい対象を表す「Set」という述語を用いて、矛盾は回
> 避されています。 >後で解説
> 「Set」 :
> クラスRはもはやSetになり得ない、と絶対的な言い方をしていますが、
> 実はそうではなくて、Setとは「ZFにとって何が対象なのか?」、あるい
> は「要素にしたいものは何か?」を定義する述語なのです。
ある公理系である対象を扱い、矛盾が生じてしまった時、「そもそもその対象
はこの公理系で扱うべき対象ではなかった」ということですよね。
確かに、理解できますが、後出しじゃんけんみたいでやっぱり気持ち悪いです。
(^^;)
> クラスRや全クラスUは「Setでない」ことが分かりますが、あるクラスが
> 「Setである」ことはなかなか分かりません。
> ZFの公理……ZermeloとFrankelが提案したからこう呼ばれる……は10
> 個ありますが、「何がSetか」を定義していると言うこともできます。
むむ。公理自体が Set を定義しているとなると、その公理が Set に成り立
つのはトートロジーであるような気が……。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kbys_ysm/
矛盾 投稿者:河本 投稿日: 5月17日(月)13時18分50秒
小林さん
>ある公理系である対象を扱い、矛盾が生じてしまった時、「そもそもその対象
>はこの公理系で扱うべき対象ではなかった」ということですよね。
>確かに、理解できますが、後出しじゃんけんみたいでやっぱり気持ち悪いです。
(^^;)
ほんとにそうですね。
しかし、こういう当然のような事実が分かるには、ノイマンの鋭い観察が必要だっ
たわけです。
数学の仮説の立て方・理論の作り方の正しい方法って、どうあるべきと思われます
か?
>むむ。公理自体が Set を定義しているとなると、その公理が Set に成り立
>つのはトートロジーであるような気が……。
そう容易い事態ではなくて、ZFの公理が無矛盾という保証はぜんぜんありませ
ん。
たしかにZFは矛盾の解決と言うよりは、撤退・回避したという感じを受けます。
そのへんの喩え話を以前ケダさんにしたことがあるのですが、引用しておきます。
−−−−−−−−−
人間の行う思考活動の基礎になっているのが、科学知識とその思考法である言って
もよいのでしょうか。
そうだとして、それらの科学理論のさらに基礎となり、またそれを表現する言葉と
なっているのが数学ですね。
その数学の基礎の部分が、そのまんまの名前の「基礎論」と呼ばれる分野なので
す。これには、集合論、記号論理学などが含まれます。
ところで、思考の元になっている部分ですから、当然それはその名のとおり、その
上にそびえる人間の知識体系という壮大な建築物をしっかりと支える、美しく不動の
無矛盾の体系があるのだと誰もが思うのでありましょう。
しかし、ゲーデルは少なくともその上に数学理論を表現できるような体系……集合
論もその一つ……ならば、それ自体の無矛盾性はその体系の内部では証明できないこ
とを示してしまいました。
体系Aについて外部の体系Bから無矛盾性を証明できる可能性はありますが、それが
できても、こんどはBの無矛盾性を言わなければならす、事態は良くなっていないわ
けです。
それで、今最もポピュラーな集合論はZF……ツェルメロ・フランケル……の公理
系と呼ばれる体系なのですが、無矛盾性は証明できるはずもなく、今のところ矛盾は
見つかっていない、というだけの話なのです。
矛盾が見つかる可能性は大いにあると言わなければなりません。ZF以前の集合論
もまさか矛盾しているとは誰も考えていなかったのに、ラッセルがなかなか手強い矛
盾を容易な式で構成して見せてしまいました。
彼の使った論理は「対角線論法」というかなりの切れ味を持った論理なのですが、
喩えて言うなら、草薙の剣……これ、誰が何に使ったのだっけ?……かしらん。
基礎論の周辺を探検していた数学者たちが、その名刀でつい下草や灌木を薙ぎ払お
うとした剣先が、まさか切れるわけもないと思った太い大理石の大黒柱を斜めにバ
サッと切り分けてしまったのでした。
ドドドドッと崩壊しかけた建物に、慌ててつっかえ棒をして逃げ帰ってきた、とい
うのが基礎論の現状です。
底なしのゲーデル沼からは濃い霧が立ちこめ、皆が近づかなかったために鬱蒼と木
が生い茂り、建物の入り口は見えません。
−−−−−−−−−−
「自然数を表現可能でしかも無矛盾な体系」の解説、あと3〜4回でなんとかまと
めます。>まだ続くよ (^^)
Re: 矛盾 投稿者:小林泰三 投稿日: 5月20日(木)23時53分52秒
>河本さん
> 小林さん
> >ある公理系である対象を扱い、矛盾が生じてしまった時、「そもそもその対象
> >はこの公理系で扱うべき対象ではなかった」ということですよね。
> >確かに、理解できますが、後出しじゃんけんみたいでやっぱり気持ち悪いで
す。(^^;)
>
> ほんとにそうですね。
> しかし、こういう当然のような事実が分かるには、ノイマンの鋭い観察が必要
だったわけです。
>
> 数学の仮説の立て方・理論の作り方の正しい方法って、どうあるべきと思われま
すか?
これは本当に難しいですね。
公理系の真偽の判定に直感を使おうにも、そもそも人間の直感は無限を把握で
きないですし。
> >むむ。公理自体が Set を定義しているとなると、その公理が Set に成り立
> >つのはトートロジーであるような気が……。
>
> そう容易い事態ではなくて、ZFの公理が無矛盾という保証はぜんぜんありませ
ん。
>
> たしかにZFは矛盾の解決と言うよりは、撤退・回避したという感じを受けま
す。
たとえば、あるクラスAが、ZF の公理系を満たさなかった時、「クラス A
は Set ではなかった」とすれば、 ZF の公理系は傷つかないわけですよね。
同じく、クラス B が、ZF の公理系を満たさなかった時も「クラス B は
Set ではなかった」とすれば、 ZF の公理系は傷つかないわけですよね。
そうやっていくうちに、すべてのクラスについて、ZF の公理系を満たさな
いことが証明されてしまった (つまり、ZF の公理系は矛盾していた) とし
ましょう。
その時でも、「Set であるクラスは存在しない」という定理が証明されたと
考えれば、ZF の公理系は傷付かないような気がするのですが、どこか誤解
しているでしょうか?
#対象が存在しない公理そのものはナンセンスだと思いますが。(^^;)
無矛盾・「ムー」 投稿者:河本 投稿日: 5月24日(月)16時53分49秒
小林さん
>その時でも、「Set であるクラスは存在しない」という定理が証明されたと
>考えれば、ZF の公理系は傷付かないような気がするのですが、どこか誤解
>しているでしょうか?
>#対象が存在しない公理そのものはナンセンスだと思いますが。(^^;)
う〜む。死体が傷つかない、というのと同じですねえ。
こういう風に書き込まれる理由をあれこれ考えてみたのですが、「矛盾を避けるた
めに」対象を制限するというのが好みに合いませんか?
非数学自然科学では無矛盾性などそんなに気に掛けずに、事実を巧く記述しそうな
理論をどんどんこしらえてしまうという方法が採られますが、数学もそうすべきとお
考えですか?
量子論も相対論も両者の組み合わせもそれぞれ矛盾がありそうな気がするのです
が、科学者達はそんなことぜ〜んぜん気にしていないみたいですね。 (^^;)
一方、数学では、なんとしても「無矛盾」であることを、証明できないにせよ注意
しつつ進めないと議論が成り立たないのです。
Re: 無矛盾・「ムー」 投稿者:小林泰三 投稿日: 5月25日(火)23時42分4秒
>河本さん
> 小林さん
> >その時でも、「Set であるクラスは存在しない」という定理が証明されたと
> >考えれば、ZF の公理系は傷付かないような気がするのですが、どこか誤解
> >しているでしょうか?
> >#対象が存在しない公理そのものはナンセンスだと思いますが。(^^;)
>
> う〜む。死体が傷つかない、というのと同じですねえ。
> こういう風に書き込まれる理由をあれこれ考えてみたのですが、「矛盾を
> 避けるために」対象を制限するというのが好みに合いませんか?
> 一方、数学では、なんとしても「無矛盾」であることを、証明できないに
> せよ注意しつつ進めないと議論が成り立たないのです。
それは理解しているのですが、公理系や定義はなるべく単純な方が美しく感じ
るのです。
これは全く個人的な好みなので、「だから ZF は間違っている」というつも
りはありません。
FC 投稿者:河本 投稿日: 5月26日(水)16時01分26秒
小林さん
>それは理解しているのですが、公理系や定義はなるべく単純な方が美しく感じ
>るのです。
ぼくも賛成です。>というか数学者もそう思っているに違いありません。ただ、言
うは易し……だったのでしょう
FCは単純だよ。 (^^)
FCの議論の続き :
以前の書き込みで「証明」した「ベルンシュタインの定理」をFCで否定します。
込み入っていますが、「ラッセルのクラスRの矛盾」を解消した方法と比べてみて
下さい。
ほぼ同じ構造をしています。
これが理解できなくても、次の自然数の話には差し支えありません。
>集まりとその部分クラス全ての集まりの間の一対一対応の存在
f
C_0 → P_c
まず、集まりC_0の部分クラス全部を要素とする集まりP_cを定義します。
∀a a ∈ P_c ⇔ ∃B B⊆C_0 ∧ B ma a −P_c−
この式は確かに集まりP_cの要素は、集まりC_0のある部分集まりBが作っている
ことを表現しています。
*ZFではC_0の部分クラスがそのままP_cの要素のなりますが、FCでは「集ま
り」は要素になることはないので、部分集まりBが作るクラスがP_cの要素となって
いることに注意してください。
ZFで考察したように、C_0の要素の内、対応する部分集まりに含まれないもの全
部を集めた集まりK_0を考えます。
∀a a ∈ K_0 ⇔ ¬(∃D a∈D ∧ D ma f(a))∧ a∈C_0
−0−
右辺の括弧の中の式はTRにより、a∈f(a)ですから確かにK_0はZFで考察し
たKに相当します。
0式より、
K_0 ⊆ C_0
は真です。
K_0 ma k_0 −1−
とします。すなわち、集まりC_0の部分集まりK_0はk_0を作ります。
ゆえに定義P_cより、
k_0∈ P_c
ここでZFの場合と同じように、k_0のfによる逆像をaに代入します。
a=f’(k_0)
f’(k_0) ∈ K_0 ⇔ ¬(∃D f’(k_0)∈D ∧ D ma f(f
’(k_0)))∧ f’(k_0)∈C_0
f(f’(k_0))=k_0ですから、
f’(k_0) ∈ K_0 ⇔ ¬(∃D f’(k_0)∈D ∧ D ma k_0)
∧ f’(k_0)∈C_0 −2−
もし2式の左辺f’(k_0) ∈ K_0が真とすると、 −M−
1式と合わせて
f’(k_0) ∈ K_0 ∧ K_0 ma k_0 が真
ゆえに
∃D f’(k_0)∈D ∧ D ma k_0 が真
ゆえに、2式の右辺が偽。
結果として2式の両辺の真理値が異なり矛盾。
従ってMが否定され、
¬f’(k_0) ∈ K_0 −3−
∃D f’(k_0)∈D ∧ D ma k_0 −4−
が得られる。
ZFと同じ集まりK_0を考察しても矛盾は導かれず、一対一対応fの存在は否定さ
れない。
ZFでは「対角線論法」を用いて、
¬#C_0=#P_c
、
¬#C_0<#P_c
が導けますが、FCでは導けません。
事実、
#C_0=#P_c
#P_c<#C_0
などが可能です。
Re: FC 投稿者:小林泰三 投稿日: 5月30日(日)02時02分53秒
>河本さん
> FCは単純だよ。 (^^)
その点が気に入りました。
自然数 投稿者:河本 投稿日: 6月 1日(火)21時30分1秒
自然数 :
自然数の定義を、「0」と「N+1」の二概念を定義することによって行いたいと
思います。
>「0」
要素を持たない集まりの作るクラスが0です。
式で書くと、
{ } ma 0 −0−
>「N+1」
集まりNがクラスnを作る
N ma n
とすると、
N+1=N U {n} −D−
となります。
これらの定義で0から順番に自然数を定義できます。
0式とD式より、
{ }+1={ } U {0}={0}
{0} ma 1 −1−
要素を持たない集まり{ }は「空」集まりで、それが作るクラスが0です。
空集まりに1を加えると要素一個を持つ「一」集まりになり、それが作るクラスが
1となります。>1式
さらに、1式より、
{0}+1={0} U {1}={0,1}
{0,1} ma 2 −2−
一集まりに1を加えると要素二個を持つ「二」集まりになり、それが作るクラスが
2となります。>2式
3以上も同じように定義できます。
{0,1}+1={0,1} U {2}={0,1,2}
{0,1,2} ma 3
・・・・
{0,1,2,・・・・k−1} ma k
{0,1,2,・・・・k−1} U {k}={0,1,2,・・・・k−
1,k}
{0,1,2,・・・・k−1,k} ma k+1
「+1」という操作は無限に続けることができ、実際そうするとZFで定義された
自然数と同じ体系になります。
>FCで考察することのメリット
自然言語で「数」というと「個数」と「序数」の区別がありますが、ZFでは「順
序数」が両者を兼ねています。
>例
「5」は「5個」と「5番目」を表す。
「無限」の数の場合は、同じ濃度を持つ順序数の内最小のものに「基数」=個数も
兼ねさせる。
一方FCでは「個数」には集まり、「序数」にはクラスを用いて分析することが可
能です。
自然言語で異なる概念が、FCでは自然に区別されています。
これだけではたいした利点と言うほどではありませんが、次回にFC以外では構成
不可能な「有限な体系」を解説します。
小林さん
>その点が気に入りました。
嬉しいです。
実数も可算濃度 投稿者:河本 投稿日: 6月10日(木)15時07分46秒
連続体仮説 :
FCでは「集まりCの要素より、その部分集まりの作るクラス全てを集めた集まり
P_cの要素のほうが多いとは限らない」ことを示しましたが、これを具体例で考えて
みます。
>例
C={0,1,2,3,4}とすると、
Cの部分集まり……例えば{0,1,4}……の総数は、各要素を含むか含まない
かの二通りづつの可能性がありますから、2^5=32となります。
ZFで示される定理、「#C<#P_c」は、この例の5<32を表現しているわけ
です。
ZFの範囲で考れば、有限の場合はかなり当たり前の事実ですし、無限の場合も否
定のしようがありません。
FCでなぜこの定理が否定されることもあり得るかというと、Cの異なる部分集ま
りが同じクラスを作る可能性があるからです。
例えば、{0,1,2}ma 0、{0,1,4}ma 0、も可能です。
「ma」という述語は「関数」と同じ「多対一」という関係ですから、Cの部分集ま
りの総数が32だとしても、それらが作るクラスの総数は、最小で1まで少なくなる
場合があります。
すなわち、全ての部分集まりが、同じ一個のクラスを作る場合です。
FCが示すこの可能性は、「連続体仮説」に対して、ZFでは想像不可能な世界の
存在を見せてくれます。
「連続体の濃度はAleph_1か?」−C_1−という問いに対して「Yes」というのが
「連続体仮説」です。>「アレフ」という文字、どうすれば書けるの?
GedelやCohenによって、この命題の肯定・否定のどちらもZFの公理に対して無矛
盾であることが証明されています。
*連続体=実数
*「Aleph_0」は自然数の濃度、「Aleph_1」はその次に大きい濃度、
「Aleph_2」はその次に大きい濃度・・・・と続きます。「濃度」は個数のこと。
FCのC_1に対する答えは、「連続体の濃度はAleph_0もあり得る。有限の値でさ
えあり得る。Aleph_1もありうる。任意の1<iについてAleph_iでありうる」と相当自
由なものです。
式で書くと、
0 < #C < Aleph_ω
*ωはAleph_0のこと
ようするにFCでは「連続体の濃度についてほとんど制限はない」という結果で
す。
「実数の濃度が自然数と同じ」なんて、ZFでは「ありえへん」結果ですが、FC
を用いてその命題が成り立つModelを構成可能です。 >実際ラトヴィアのKarlisに
見せるために作ったのですが、表現が難しい
Re: 実数も可算濃度 投稿者:小林泰三 投稿日: 6月13日(日)19時13分44秒
>河本さん
> 連続体仮説 :
> FCのC_1に対する答えは、「連続体の濃度はAleph_0もあり得る。有限
> の値でさえあり得る。Aleph_1もありうる。任意の1<iについてAleph_iであ
> りうる」と相当自由なものです。
> 式で書くと、
> 0 < #C < Aleph_ω
> *ωはAleph_0のこと
> ようするにFCでは「連続体の濃度についてほとんど制限はない」という
> 結果です。
これは目から鱗がぼろぼろと落ちました。超限数の存在を知ったのと同じぐら
い感動しました。
でも、ZF による「連続体濃度は自然数の濃度より大きい」という結論を知
らない人にはこの感動はないのかもしれませんね。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kbys_ysm/
解説など 投稿者:河本 投稿日: 6月16日(水)14時11分22秒
小林さん
>これは目から鱗がぼろぼろと落ちました。超限数の存在を知ったのと同じぐら
>い感動しました。
理解してもらえたことが嬉しいです。
>でも、ZF による「連続体濃度は自然数の濃度より大きい」という結論を知
>らない人にはこの感動はないのかもしれませんね。
そうですね。美しい作品を作りそれを壊す、というのが愉快ですよね。>なんか違
う?
2004年07月31日 14:01
送信者:河本 <zbi74583@boat.zero.ad.jp >
表題:M5他
小林さん
「不完全性定理の否定」最終回です。
五つの要素を持つ次のようなmodelを考察します。>名前はM5
世界 : U={0,1,2,3, n}
公理 : { } ma 0, {0} ma 1, {0,1} ma 2, {0,1,2} ma 3, {0,1,2,3} ma n, {0,1,2,3,n} ma n,
その他の集まりXについては全て X ma n
M5はFCの公理を満たします。
A. ma ∀A∀B∀x∀y A ma x ∧ B ma y ∧ A=B ⇒ x=y
A. el ∀A∀B (∀a a ∈ A ⇔ a ∈ B) ⇒ A=B
A.F ∃x∃B (∀a a ∈ B ⇔ F(a)) ∧ B ma x
A.maについては、公理により確かに、M5の全ての集まりに対して唯一のクラスを作るようになっている。
A.elについては、有限集合Uとその部分集合がM5の集まりなので、ZFの「集合の同一性」の公理を満たし、それはA.elそのものです。
A.Fについては、F(a)として如何なる条件を採っても、F(0)、F(1)、F(2)、F(3)、F(n)、それぞれの真偽値を確かめるという五回の手間でF(a)を満たす集まりBが決定できる。
さらにM5には「自然数」が存在します。
1.0は自然数
2.nが自然数 → n+1も自然数
Uの要素は公理1,2を満たしている。
何故なら、
1.{ }は自然数 >こう仮定する
2.{ }が自然数 → { }+1も自然数
{ }+1={ }U{0}={0}
*K+1の定義は、K ma k とすると、K U {k}
故に{0}も自然数
{0}が自然数 → {0}+1も自然数
{0}+1={0}U{1}={0,1}
故に{0,1}も自然数
{0,1}が自然数 → {0,1}+1も自然数
{0,1}+1={0,1}U{2}={0,1,2}
故に{0,1,2}も自然数
・・・・
故に{0,1,2,3,n}も自然数
すなわち、U=Zとなっている。
*Zは自然数全体の集まり
M5の「自然数」のユニークな点は、「最後の自然数=n」が存在すること。
{0,1,2,3,n} ma n >公理より
{0,1,2,3,n}+1={0,1,2,3,n}U{n}
={0,1,2,3,n}
となり、集まり{0,1,2,3,n}あるいはクラスnは、1を加えても変化しない。
nは自然数のターミナルなのです。
今まで議論してきて分かるように、FCはZFの数々の矛盾を解消し、しかも「自然数」を表現できるのだから、既に「自然数を表現可能でしかも無矛盾な体系」と思えるのですが、「証明」が出来ていません。
M5は「証明」のためのmodelなのですが、実際にどういう風に無矛盾性を証明するのか知識がありません。
しかし、M5がFCのmodelだということは、「M5の論理式がFCの式として読める」ということですから、もしFCが矛盾しているのなら、その矛盾を表現している論理式はM5の論理式でもあるわけで、M5に矛盾があることになる。
故に、対偶を取れば、M5が無矛盾ならFCが無矛盾と言うことが可能。
それで、M5は有限な体系ですから、その全体を見渡すことも容易です。
こういう「小さな」体系が無矛盾であることなど容易く出来そうな気がします。>精細は分かりませんが
今回の議論は、数学としての精密さに欠けますが、スーガク者としては、まあいいのではないだろうかと思う。
M5が矛盾していないことなんか一目で分かるわ。
というわけで、「自然数を表現可能でしかも無矛盾な体系」とはM5のことです。
あるいはFCのことと言ってもよい。
2004年08月01日 02:05
送信者:小林泰三 <kbys_ysm@mbox.kyoto-inet.or.jp >
表題:Re: 小林掲示板の書き込み
>「不完全性定理の否定」
素晴らしい。人間の思考原理はひょっとすると、ZF 的なのかもしれませが、
それが必然的に矛盾を内包しており、アクロバチックな逃げ方をしなければな
らないのなら、いっそ思考方法を見直してもいいのではないかと思うようにな
りました。
問題は後天的に人間の思考メカニズムを FC 的に変えられるかどうかですが。
2004年08月10日 19:01
送信者:河本 <zbi74583@boat.zero.ad.jp >
表題:うなぎとFC
>>「不完全性定理の否定」
>素晴らしい。人間の思考原理はひょっとすると、ZF 的なのかもしれませが、それが必然的に矛盾を内包しており、アクロバチックな逃げ方をしなければならないのなら、いっそ思考方法を見直してもいいのではないかと思うようになりました。
>問題は後天的に人間の思考メカニズムを FC 的に変えられるかどうかですが。
数学の世界では、思考原理はたしかにZFが基礎になっているようですが、自然言語の基礎は実はFCなのです。
そう判断できる材料はいろいろあるのですが、一例を示します。
所謂「うなぎ文」を標準的な文法で分析することは、なかなか難しいようです。
「僕は昼はうなぎだ」 −S1−
この文が「AはBに等しい」……英語のbe動詞……を表現するのは、かなり稀な場合で、例えばある男が「うなぎ人間」であって、夜はひと、昼間はうなぎの姿をとるなどという事情があれば可能でしょう。
たいていは「僕は昼食にうなぎ料理を食べる」という、一人の人間の希望・予定を表しているのが普通のことでしょう。
こういう分析が可能な構文として、「僕は」はこの文のテーマの宣言であって、be動詞の主語ではなく、「昼食は」といううなぎ=補語に対する主語が「省略」されているとするのがよく行われる方法です。
しかし、文章に顕れない「隠れた」要素を仮定すると、構文の分析はややこしくなり、さらに、S1がすなおな「be動詞文」なのか、「うなぎ文」の典型なのかを判断する基準として、その会話がなされている「場」……昼休み前のサラリーマンの会話……まで分析の対象にすると、実際に言語学者が分析している「記号の列」はS1の単純さから遠く離れた「文法解析のために整えられた記号列」になってしまうのではないでしょうか。
FCの分析法は単純です。
「文法」はそれぞれ個人のものです。
ある人にとっては、
僕は∈S1 、 昼は∈S1 、 うなぎだ∈S1
S1 ma [僕は昼間は人の姿をしている]I1
というのが、彼の考える概念達の間の関係=文法であり、
ある人にとっては、
僕は∈S1 、 昼は∈S1 、 うなぎだ∈S1
S1 ma [僕は昼食にうなぎ料理を食べる]I2
というのが、彼の文法なのです。
* [ ]の中の日本語は、話者の気持ちを記述するメタ言語です
隠れた要素もなく、文章が存在する「場」なども考慮の必要がない。
ただ、{僕は、昼は、うなぎだ}S1という文が、[僕は昼食にうなぎ料理を食べる]I2という概念を作る、それだけです。
ひとの言語認識の過程をどんなに探ってみても、標準文法の言うような構文などは存在せず、S1 ma I1やS1 ma I2という関係があるだけなのではないでしょうか。
*前者と後者は同じ体系の文法ではない
*「ma」は唯一の概念を作る述語だから、I1≠I2 故に違う体系の規則