※
 全く新しい理論の大筋を解説するのは難しいことです。
 「1.イントロダクション」は何回か書き直した文章です。
 書き換えて一番良くなったとも思えないので、「FC入門」として書いた文を全部載せることにしました。
 繰り返しの部分もあると思いますが、ご容赦下さい。 
 
 
 2.イントロダクション −その二−  
 2−1.形式 集合論
 集合とは何であったのか。集合論のテキストを開けばたいてい次のような説明が記されている。
 
 すなわち、述語∈と論理記号による形式的な定義があり、そして自然言語による非公式な解説がある。
 
 その解説とは、「集合とはものの集まりである」という説明があり、さらに例えば自然数すべての集合などという例がいくつかあげられる。
 まことに素朴なものであるが我々が 今論議している対象を理解するには十分である。 というのは、集合などという基本的な概念は、正確な定義はできないにしても、誰でも例えば、三角形が何か、平面が何かをよく知っているように、よく分かっているものだからである。
 
 ところで、形式的な記述のほうは、この我々が持っている素朴なイメージの正確な定式化であると説明される。
 すなわち、形式的な記述の表現しているものと、「集合とはものの集まりである」という命題の表しているものは「同じ」であるとされる。
 これはZFなどにおいては、ほとんど正しいのであるが、この形式は本来は我々の持っている集合のイメージとは異なるものを表現する可能性があったのである。
 もし、注意深く見るならば、両者は異なるものであることが分かる。
 
 ZFの始めの二つの公理は次のとうりである。正確にはここで用いるのは、ノイマン・ベルナイス・クワインの形式であるが、もちろんZFと等価なものである。
 
   A.1   ∀x∀y ( ∀a a∈x ⇔ a∈y ) ⇒ x=y
   A.2   ∃x (∀a a∈x ⇔ Fa ∧ set a) 
   但し、Faはaに関する条件を表している。
 
 二番めの公理のset aは、ラッセルその他によって発見された矛盾を避けるための制限であるが、これは単に扱っている対象を我々の素朴な感覚に合わせるためだけにも必要なものである。何故なら、もしこの制限をなくして全クラスを定義すると、例えば次のようになる。
   ∀a a∈U ⇔ a=a
 ここで、a=Uとすれば、
      U∈U ⇔ U=U
 となり、U∈Uが真となる。しかし、これは感覚的にはおかしなことである。何故なら、全集合とは、すべての集合を集めてできた集合である。すなわち、この世界にある集合をひとつ、またひとつと集めている段階では、まだ全集合はできていない、すなわち存在しないのであるから、Uそれ自体を要素として集めることはできない。
 
 このことから言えることは、ZF以前の、setによる制限のない形式化は「ものの集まり」という動的、具体的な概念を離れて、むしろ述語∈は静的に存在する対象のあいだの二項関係であるという、いくらか抽象的な方向に進んでいたのである。
 
 2−2.ZF、x∈x
 しかし、幸か不幸か矛盾が次々と発見され、形式的な集合論は注意深く制限が付け加えられ、ZFなどの公理的集合論としてまとめられたのである。この結果、形式的表現は限りなく感覚的イメージに近いものとなった。
 事実、正則性の公理からは、
    ∀a ¬a∈a
 が得られ、自分を要素とするというような「普通ではない」集合は存在しないこととなった。
 
 これはどちらかというと、残念なことである。数学は、形式化によって拓けた新しい世界を探索することにより、発展してきたのであるから。
 a∈aとなるクラスaが存在する広い世界を、ただ矛盾を避けるためだけに捨て去る、というのは惜しいことである。そのようなクラスを扱いうる体系(クワインのMLなど)があるのであるから、ともかくそれらは存在するのである。
 
 2−3.F.C.の公理             
 F.C.の公理は次のとうりである。
 
   A. αβ (a aα  aβ) α=β
   A.m αβ∀a∀b αmaβmbα=β  a=b   
   A.F βb (a aβ  Fa) βmb      
 
   但し、a、b、c、・・・はクラスを表わす変数。(mは使わない)
      α、β、γ、・・・は「集まり」を表わす変数。 
   また、述語Aは常に aα のかたち、述語mは常に αmb のかたちで現れ、   それぞれaはαの要素である、αはbを作る(m for makes)、を表わ   している。
   それぞれの公理の意味は次のとうりである。
   A. は要素の等しい「集まり」は等しいこと、
   A.m はある「集まり」は唯一つのクラスを作ること、
   A.F は任意の性質Fの要素を集めると、ある「集まり」ができ、その「集まり」   はあるクラスを作ること、を表わしている。
 
 述語mや「集まり」という概念の意味やそれらの必然性については、次の”2−4.「概念」概念の公理”のところで触れることにして、ここではおおまかな説明をすることにする。
 まず世界には対象としてクラスだけがある。世界としては例えば全ての数の集まり(クラスという言葉はあえて使わない)でもよいし、あるいは全てのクラスの集まりでもよい。 そしてある性質のクラスを集めるとある「集まり」ができる。(図2−3.1)この「集まり」はまだクラスではないのである。
 F.C.においてはクラスと「集まり」を明確に区別する。
    
 そうしてこの「集まり」があるクラスを作るのである。(図2−3.2)
    
 もちろん、「集まり」もクラスとして、さらに全ての「集まり」はそれ自身を作るとすることも可能であるが、そうするとF.C.のクラスは普通の集合論の‘クラス’と全く同じになる。(図2−3.3)
    
 
 なお、あるF.C.の論理式が普通の集合論のどのような論理式を意味しているかということであるが、それは次の解釈によって与えられる。(図2−3.4) 
 
   β aβ  βmb  means  ab      −1.1.
 
    
 2−4.「概念」概念
 ここでは、2−3.においてア・フプリオリに与えられた概念や公理が、どのように必然的に得られるかを、「集合」概念よりもっと基本的な概念を用いて説明することにする。
 しかし、これはかなり難かしいことである。「集合」概念はそれ自体もう分解できないほど基本的な概念だからである。  
 ただ一つ、そのようなものの侯補として「概念」と呼ばれる概念がある。
 これは確かに基本的である。人間の思考は全て概念によってなされるのであるから。
 集合でないものがあっても、概念でないものはないであろう。
 
 ところで、「概念」概念の公理を得るために、何かよいモデルを考察の対象にしたいのであるが、もちろん、集合論は「概念」の理論の研究のための面白い対象の豊富な領域ではあるが、公理の探求には失格である。集合論の矛盾を解決しようとしているのであるから。
 
 もう一つ、よく定式化され研究されている概念の体系として、公理的な言語学……成句構造文法など……があるが、実はこれも集合論と同じ欠点を持っているのである。
 このことについては後でふれることにする。
 
 さて、ここでは、「概念」の理論のためのモデルとして、言語によって現わされる意味の体系を用いることにする。
 なお、ここでいう「意味」は、意味論と呼ばれるややこしい体系とはほとんど関係がない。
 公理を得るために観察の対象にするのは、もっと素朴な、その言語を使っている人物がその言葉によって現わしたいことがら、又は現したい気持、の体系である。
 
 さて、「概念」の理論の公理を探究するためには、その発生に遡るのが最もよい方法であろう。つぎのような光景を想像してほしい。
 
 一人の原始人が彼の住まいである洞屈の前に立っている。
    
 彼の傍には、彼が狩ったのであろう一頭の動物が横たえられている。そして、そのそばの岩肌には動物の絵と手の絵が描かれている。彼は自分の手柄を何とかして表現したかったのである。
 
 この言語の起源とでもいうべき最も短い文を例として「概念」の構造を探りたいのであるが、短いと言ってもそこには多くのものがある。
 
 動物の絵、その絵の表わしている「概念」、手の絵、その絵の表している「概念」、動物の絵と手の絵よりなる文、その文の表わしている意味……彼の表現したかったこと……、この絵文字言語を見た者が受けとめる意味、等々である。
 
 「概念」の公理を得るためには、最も本質的なものを選ばなければならない。それには、この絵文字を研究している後世の言語学者の想程する文法などではなく、彼……一人の原始人……の文法を考察するべきである。
 何故なら、彼にとってそこに存在するのは単なる動物の絵や手の絵ではなく、「自分の狩った獲物」という概念であり、「自分の手」という概念なのである。
 そうして、これ等二つの概念よりなる「動物」−「手」という文は、彼の気持の中では「この動物はおれが狩った」又は、「この獲物はおれのものだ」で大まかに説明できるある概念を作っているのである。
 
 なお、ここで「動物」−「手」という文の作る概念には何の必然性もない、まさに「彼の」文法なのである。彼の気持の中でどのような文がどのような概念を作るかを決定すれば、それによって一つの文法が定まるのである。
 
 また、ここでは「この動物はおれが狩った」=c1という概念と「この獲物はおれのものだ」=c2という概念を区別していないが、もしそれ等のニュアンスを区別するならば、「動物」−「手」という文がc1という概念を作る場合とc2という概念を作る場合では文法が異なると考えるのが自然なのである。
 大切な点は一つの文が一つの概念を作るということである。
 
 この例を形式的に書くと次のとうりになる。
 
   aα  bα  αmc
 
 ただし、  aは「自分の狩った獲物」という概念を、
       bは「自分の手」という概念を、
       αは「動物−手」という文を、
       cは「この動物はおれが狩った」、または「この獲物はおれのものだ」        とほぼ表現できる彼ー原始人の言いたい気持を   
 表わし、  aα は概念aは文αの要素となっていることを、
       αmcは 文αは概念cを作っていることを    
 表わしている。
 
 彼がもっと細かい概念を区別しはじめ、例えば、
 
    「この動物はおれが狩った」c1 だから「この獲物はおれのものだ」c2
 
 などという思考過程をたどるようになった場合、同じαという文が概念c1とc2を作るとするよりは、彼がαという文を見てc1を思いうかべているときと、c2を思いうかべているときでは文法が異なるとするほうが自然なのである。
 
 あるいは、隠れた概念「主体の動作」vと「ものの性質」adjを要素とする異なる二つの文 α1 ={a,b,v}、α2 ={a,b,adj}がそれぞれc1 、c2 を作る、すなわち、
   α1 m c1  、α2 m c2
 とするか、
 
 より精密に彼の動作を表わす概念「彼の投げた槍」や獲物の状態を説明する概念「彼が顔料で獲物にしるした〇印」を要素とする文を使い、
   α1 m c2   ただし、α2 ={a,b,槍}  
   α2 m c2   ただし、α2 ={a,b,〇}    
 
 または、述語であるところの「自分の手」という概念を変化させて「槍をつかむために握った手」と「獲物をかかえるために開いた手」を要素とする文を用いて、
   α1 m c1   ただし、α1 ={a,握った手}      
   α1 m c2   ただし、α1 ={a,開いた手}      
 などとすれば、c1 とc2 を区別しても同じ文法におさめることができる。
 
 上の例において常に一つの文は一つの概念を作るとしてきたが、これは理論を扱いやすくするために大切な点である。
 
 さて、これらの関係を公理としてまとめれば、次のとうりになる。
 
   A.    αβ (a aα  aβ) α=β
   A.m    αβb (αma  βmb  α=β)
           a=b 
   ただし、
   変数 α、β、 、・・・は文を、
   変数 a、b、c、・・・は概念を表わし、
 また、
   述語は常に次の形で現われ、
       aα
   概念aは文αの要素であること、 
   述語mは常に次の形で現われ、
       αma
   文αは概念aを作ることを、それぞれ表わしている。
 
 なお、ここで注意しなければならないのは、この公理における述語mと「意味する」という言葉を混同してはならないということである。
 事実この二つの概念は似ているのであって、上の例において
   文{a,b}は概念cを「意味し」ている         −*2
 としても理解できるほどである。しかし、この二つの概念は異なるのであって、述語mは一つの文法体系に属する文(=概念の集まり)と概念の間の関係であるのに対して、
   ex. {a,b}mc  
 「意味する」(means)という述語は、二つの文法体系のそれぞれに属する概念と概念の間の関係である。
   ex. 動物の絵 means c   
 この二つの概念は厳密に区別するべきである。
 この述語mを直感的に理解できるような言葉でおきかえることは難かしい、F.C.以前には正確に理解されていない新しい概念だからである。F.C.においては「作る」という言葉を使っているが、もちろん無定義に使われているのであって、公理をとうして理解するほかにないのである。
 
 例1 
 ここでは得られた公理、A.とA.mを形式的な言語の理論に応用してみる。
 ただし、こまごまとした文法(成句構造文法)などには立ち入らない。概念の公理によるものの見方を示すだけである。
 普通の形式的な文法とは、次に述べるように基本的なところで一つだけ大きな相違点がある。
 上の原始人の絵文字の例において、今度は絵を描いた人間ではなく、現代の考古学者の立場から文法を探ってみる。彼にとって岩肌に存在するのは、絵文字1(=動物の絵)と絵文字2(=手の絵)、そしてそれ等二つの文字よりなる 記号列である。
 形式的に表わせば次のとうりである。
 
    p1  p1 p2 ,   p2 p1 p2      
    p1 p2 m(p1 p2 )      
 
         なおp1 は絵文字1、p2 は絵文字2である。   
 
 また、p1p2は記号列であり、(p1p2)はp1とp2を一まとめにした絵文字p1−p2を表現している。この絵文字(p1p2 )はふたたび記号列の要素になりうる。
 岩肌に描かれた状態はp1p2も(p1p2)も同じであるが、概念の公理ではこの二つを厳密に区別する。
 なお、ここでは記号列における要素の順序を無定義に用いているが、これを定義することは難しくない。そうすれば、絵文字と記号列は概念の公理における概念と文として扱うことができる。
 
 実際の言語に関する理論においては、例えば、語の理論では文字は語の要素になるが、語はもはや語の要素にはならない。
 また、自然言語の理論においては、単語は句や節や文の要素になり、句や節はまた文の要素となる。すなわち、 
   単語節 , 節
 となるが、この単語の列である節が文の要素になりうるという点は、普通の集合論において、集合の集合がそのままある集合の要素となるのと同じことである。しかし、概念の公理から見れば、次のようにするのが正しい扱い方である。
   単語文 , 文m節 , 節文  
  まり、単語や句や節は常に文の要素となり、文は条件に応じて句や節を作るのである。    
 例えば、
   (花が好き)彼女は花が好きと言った。
      節         文    
   (花が好き)が節である理由は(花が好き)を作っている文が節を作る条件を満たしているからである。すなわち、 
    花が好き m (花が好き)
      文       節  
   花が・・・目的語、好き・・・述語、これは節の条件である。
 すなわち、語の理論においては、文字が概念に語が文に対応し、自然言語の理論においては、単語や句や節が概念に 文が概念の理論における文にそれぞれ対応しているのである 。
 
 例2 
 さて、集合も概念なのであるから、とうぜん概念の理論が応用できる。A.とA.mに任意の性質のクラスを集めた「集まり」が存在するための公理A.Fを付け加えればよい。すなわち、
   A. αβ (a aα  aβ) α=β
   A.m αβ∀a∀b αmaβmbα=β  a=b   
   A.F βb (a aβ  Fa) βmb       
      
 ただし、Faはaの任意の性質を述べたものである。 
 これは”2−3.F.C.の公理”で示したF.C.の公理そのものである。
 普通の集合論と異なるところは、クラスを集めた「集まり」が一たんクラスを作り、そのクラスが再び「集まり」の要素となること、「集まり」はそのままではけっして要素とはならないこと、である。すなわち、クラスと「集まり」が概念と文に対応しているのである。
 このクラスと「集まり」との関係はN.B.C.におけるSetとプロパークラスの関係に少し似ているが、これらは次のように異なる。 
 すなわち、プロパークラスはもはや要素となることはないが、「集まり」はそれ自体は要素とはならないものの、あるクラスを作ることによって再び要素となることができる。
 A.Fを見て分かるように F.C.では要素となるクラスに対して何の制限もない。 そして、あらゆるパラドックスを解決するのである。
 
 ところで、F.C.の世界では全てのクラスが要素となるのであるから、ZFのSetの公理やMLのSetの定義などは用済みになったように思われるが、じつはそうではないのであって、それらの集合論の公理や定義をF.C.で表現して、……ある集合論のF.C.への表現とはその公理をF.C.の論理式で書くこと……考察できる。
 F.C.のFreeとはあらゆる集合が表現可能なことを表している。