1.イントロダクション
1−1.個体的集合論
ラッセルの指摘した集合論の矛盾の原因は、よく知られているように、便利な述語∈の無制限な使用にあるとおもわれる。しかし、冷静に考えると、集合的なものの見方と述語∈の形式的、そして無制限な使用はもともと相容れないものである。
ここで、「集合的なものの見方」とは「全てのものは集合である」とする考え方のことである。
集合論とは異なり、自然言語においては、集合ではないものの例をあげることはやさしい。例えば、人の集団は集合であるが、一人の人間は「個体」であって集合ではない。一人の人間は分割できない、すなわち英語の単語「個体」がin-divid-ualと書かれるとうりである。
しかしこの場合でも集合的なものの見方というのは可能なのであって、人の身体は細胞でできている、即ち細胞の集合である、そして細胞はさまざまな働きの小さな器官からなり、さらにそれらは蛋白質などの分子からなり、・・・と続けられる。また、集めていく方向を変えれば、人の集団は集合になり、その集合の集合はなんらかの社会的集団になり・・・、というぐあいである。
分轄のほうの終点はクォークで終わりそうな気もするが、ともかく集合的なものの見方をとおすことはできるのである。そして、集合の理論をこしらえる場合、このような「集合的なものの見方」を取るのは当然のことといえる。
さて、それならば、始めに述べたように、述語∈の形式的、かつ無制限な使用は不可能なはずである。
なぜなら、ラッセルの矛盾に現れる「自分自身を要素とする集合」はどのようにして存在しうるのであろうか。
ものが集まって集合ができるのなら、ある集合Aをこしらえようとしてその要素を集めている時点で、既にその集合Aが存在しているわけはないのである。従って、それ自身を要素としてひろい集めることはできない。
形式的に可能なA∈Aという論理式は、「集合的なものの見方」からはありえないものである。この式は例えば、A={A,x,y,z,・・・}ならば、x、y、z、・・・等などという要素たちと、そしてまだ何処にも存在しない″A″という要素を集めて集合Aができたということを表しているのであるから。
すなわち、わざわざ矛盾を示さなくても、述語∈を無制限に用いると、「集合的なものの見方」によると明らかに不可能なものを理論の対象にしてしまうことになる。
「集合的なものの見方」か形式的な理論かどちらかを選ばなくてはならない、ということである。
そして数学者たちは前者をとったようである。
事実、矛盾以後の公理的集合論は形式的に∈は用いるものの、「集合的なものの見方」に充分添って制限を付け加えているようである。すなわちZFの公理などは、ものを集める方法を述べているのであり、基礎の公理からは、
∀a ¬a∈a
がえられ、確かに、集合論にとって全ての集合は何かものが集まってできたもののようである。
ところで、この論文では述語∈を形式的、無制限に用いて、集合の理論を作りたいのであるが、ということは、上に述べたように、「集合的なものの見方」をしてはならない、すなわち、「全てのものは個体である」としなければならないのである。
ここで注意しなければならないのは、始めに存在する個体を例えばZFの公理などを用いて、集合などをこしらえてはいけない、ということである。
例:個体aと個体bから{a,b}を作るなど
それでは、φから始めて集合を構成するのと大差ないことになり、スタートが一つでないぶんややこしくなるだけである。
しかし、存在するのは個体であって要素を持たない、また、それらを集めて集合も作れないとなると、全ての個体は離散的に存在するだけで、普通の集合論のような集合たちがお互いに要素とする、される、という有機的な関係のない理論になってしまう。
1−2.公理
さて、個体的集合論の公理を得るために、「個体的なものの見方」で一つの例を考えてみる。
例として「羊」という概念を思い浮かべてほしい。
「メリーさんの家の羊」という特定の一頭を指示する言い方でなく、たんなる抽象的な「羊」であるから、我々は全ての羊の集まった一つの群れを思い 浮かべるであろう。
しかしこれは、我々がどっぷりと「集合的なものの見方」に浸かっているせいである。 「羊」という概念と{x:xは羊である}という集合を同じと見なすのが集合論の第一歩であるのだから。
とはいえ、こう思うのは実はここまで書いてきた文脈のせいもあるのであって、普段は「羊」と聞けば、「肉や乳を利用したり、羊毛から毛糸を紡いだり、皮を利用したりする家畜」、(以後この長い定義を「・・・・家畜」としるす)を思い浮かべるであろう。
これは「自然数」という言葉から、自然数全体の集合Nではなく、ペアノの公理のほうを考えるのと同じことである。
しかし一方、「羊の群れ」が目に浮かぶのもまた事実である。
但し、この場合もうすこし詳しく言えば、「・・・・家畜」に羊の群れが対応するのはオーストラリアの人々にとってであろう、もしも南米のインディオならば、「・・・・家畜」に対応するのはリャマの 群れになるはずである。
あるいは同じ羊の群れであっても、異なる牧場主A,Bの思い浮かべるのはそれぞれの牧場の羊であろう。
もちろん、「集合的なものの見方」からすれば、前者は定義が不正確なのであって、「・・・・家畜」をもっと精密な定義に代えれば十分に羊とリャマを区別することができるし、また、後者の「それぞれの牧場の羊」は「全部の羊の群れ」と「Aの牧場にいる動物」及び「Bの牧場にいる動物」とのそれぞれの共通部分として表されるべきだ、ということもできる。
しかし、インディオにとって「羊」という概念に対応するのはまさに「リャマの群れ」なのである。なぜなら、「羊」とは「・・・・家畜」であってさらに、「なぜればもこもこと暖かい身近な動物」であるのに、もしインディオが生物種としての「羊の群れ」を考えれば、それは「・・・・家畜」ではあるが、「何処か遠くの大陸に棲む見知らぬ動物」ということになる。これは「羊」という概念には全然あてはまらない。
この例のように、リャマの群れ、Aの羊の群れ、Bの羊の群れ、あるいはラクダの群れ、トナカイの群れ、等が一つの概念「羊」に対応する、というのは実はかなり自然な考え方なのである。数学でいえば、ある体系のモデルとその公理との関係のようなものである。
さてここで、個体と個体との関係、あるいは、「個体的なものの見方」による集合論の公理を考えてみる。
一方に「羊」という概念(=個体)があり、他方にいろいろな「群れ」(=集まり)がある。これをそのまま数式にすれば、
群れ m 羊
となり、ここで、個体の「集まり」のための変数α,β,・・・と、個体のための変数a,b,c・・・・を用いれば、
α m a
となる。ただし、mは「集まり」と個体との関係を表す述語であり、自然言語には対応する言葉がないのであるが、「作る」というのがもっともよくあてはまると思われる。
すなわち、mはmakesのmである。
述語mの公理はつぎのとうりである。
A.m ∀α∀β∀a∀b(α m a ∧ β m b ∧ α=β)⇒a=b
つまり、さまざまな「集まり」はただ一つの個体を作る、ということである。
述語∈の公理も必要である。これはつぎのように自然なものである。
A.∈ ∀α∀β(∀a a∈α ⇔ a∈β) ⇒ α=β
「集まり」はその要素によって決定される、ということである。
これらの公理によって、個体と個体との関係が定められたことになる。
すなわち、「一頭の羊」という個体が「羊」という個体(=概念)の要素’である、とはその「一頭の羊」が、「羊」を作る「群れ」……Aの羊の群れ、Bの羊の群れ、トナカイの群れ、らくだの群れ、リャマの群れ、等……のどれか一つの要素である、ということである。
形式的に表せば、
∃α a∈α ∧ α m b means a∈’b −(1)
となる。
これを図に表すとfig.1のようになる。
「集まり」を表す円から個体を表す点への線分が述語mを表現している。
なお、″要素″という言葉につけられた「’」は、個体と個体との関係を表す述語(’のあるほう)と、FCの集まりの要素(’のないほう)を区別するためのものである。(∈’も同様)
さて、この個体的集合論−FC(for free class)と呼ぶ−においては全てのものは個体であって、ものが集まってできるのではなく、始めから存在するのである。
なお、この集合論においては、ある個体aがそれ自体を要素’とすることは可能である。これはつぎのように表される。
∃α a∈α ∧ α m a −(2)
1式の解釈によれば、たしかに、
a∈’a
となる。fig.2のとうり。
1−3.対角線論法の解消
つぎに、FCによってラッセルの矛盾がどのように解決されるかを見ることにする。
∀a a∈α0 ⇔ ¬(∃α a∈α ∧ α m a) −(3)
この式の右辺は1式の解釈により、¬a∈’a であるから、α0は確かに自分自身を要素としない個体を全て集めた「集まり」である。そしてこの集まりα0が個体Rを作っている。
α0 m R −(4)
となる。このRは、普通の集合論で定義されるラッセルの集合Rに対応している。
a=R とすると、
R∈α0 ⇔ ¬(∃α R∈α ∧ α m R)
もし、R∈α0が真とすると、(4)とあわせて、
∃α R∈α ∧ α m R が真となり右辺と比べて矛盾。ゆえに、
¬R∈α0 と ∃α R∈α ∧ α m R が得られる。 −(5)
すなわち、Rのような個体を考えても矛盾は導かれず、上のような結果を得るだけである。
普通の集合論においては、R∈α0も R∈α ∧ α m Rも区別されずR∈Rと表される、これが矛盾を導く原因である。
このFCによる集合Rの分析の結果の(5)式は、興味深いものである。
Rはα0(これは¬a∈’aという個体を集めたもの)の要素ではないが、Rを作る「集まり」は外にもあって(リャマの群れにあたる)、そのような集まりの一つαの要素ではある、ということを示している。
1−4.順序数
さて、集合論の目的である順序数の定義と二三の定理を与えて、この章を終えることにする。
普通の集合論においては、「・・・・の性質を持つ集合が順序数である」、と言えるところであるが、FCには二つの変数があるので、その定義も両方にかかわったものとなる。 すなわち、「・・・・の性質を持つ集まりによって作られる個体が順序数である」、となる。
順序数の定義は次のとうり、
1.Ord a Df. ∃α Ord α ∧ α m a
2.Ord α Df. Com α ∧ Reg α ∧ Con α
3.Com α Df. ∀a a∈α ⇒ ∃!β β⊂α ∧ β m a
4.Reg α Df. ∀β ¬β=φ ∧ β⊆α ⇒ ∃a a∈β ∧ ¬(∃b b<a|α ∧ b∈β)
5.Con α Df. ∀a∀b a∈α ∧ b∈α ∧ ¬a=b ⇒
a<b|α ∨ b<a|α
a<b|α Df. ∃β β⊂α ∧(a∈β ∧ β m b)
定義2を見てわかるように、FCの場合もふつうの集合論と同じようにある集まりが
Ord(順序数)であるとは、その集まりが完全であり、正則で、連結していることである。
そして、ある個体がOrdであるとは、Ordな集まりによって作られることである。
ただし、Reg(正則)、Com(完全)、Con(連結)の各概念がFCにおいてどのような論理式によって表されるかを知ることはかなり難しいことである。
その理由は、例えば、ふつうの集合論においてはComは次のように定義されるが、
Com x Df.∀a a∈x ⇒ a⊆x −(6)
このような式に対応するFCの論理式としては、
Com α Df.∀a a∈α ⇒ ∃β β⊆α ∧ β m a −(7)が自然に考えられる。
この式は確かに、αの要素は全てαの部分集まりによって作られることをを述べている。ふつうの集合論で言えばαの要素は全てαの部分集合である、ということである。
しかし、この定義式はComの性質としてはゆるやかすぎて、例えばCom α1などという定理を導くことができない。(α1はすべての順序数を集めた集まり)
有効な定義式は定義3のようになる。これは(7)式に比べるとかなり難しい式である。 ということは、例えばCom α1などを示すのに定義3の豊かな性質を利用できるということであるが、同様に導かなければならないCom α1の論理式も″豊か″になってしまう。すなわち、定理の逃げ足が速くなるわけであるが、追いかけるほうの定義3のスピードはCom α1を捕えるのに充分である。
FCにおいてもつぎのような定理が得られる。
T 1 Com α1
T 2 Reg α1
T 3 Con α1
ただし、∀a a∈α1 ⇔ Ord a
そして、
T 4 Ord α1
T 5 Ord N
ただし、α1 m N