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■期間/2003年11月22日〜 30日
■場所/東京・有楽町朝日ホール、東京国立美術館フィルムセンター小ホール、銀座シネ・ラ・セット



11月22日(土)
今年のフィルメックスはいまいちノリが悪い。チラシを見ながら最初買ったチケットは3枚のみ。それ以後、暇さえあればチラシに目を通していたが、なかなかこれはというものが見つからない。この映画祭で上映される作品もだんだん一般公開されるようになってきたし、このときとばかり、あまり気負って観なくてもいいかなあという思いが頭をよぎる。特集上映あたりは、好きな人にはツボなのだろうが、今年はパスしそうな気配。というのも、この時期に一般公開される映画の方に観たい映画がけっこうあったりする。物理的にも時間的にも限りがあるし、あれもこれもというわけにはいかないので、まあ映画祭がはじまってから成り行きにまかせよう。

アブジャッド Abjad
■フランス=イラン■2003年■監督・脚本アボルファズル・ジャリリ■製作エマニュエル・バンビー■撮影メフディ・マジデ・ヴァズィリ■出演メフディ・モラディ、ミナ・モラニア
初日、2作品目に上映。昨年のフィルメックスで『少年と砂漠のカフェ』が審査員特別賞を受賞したアボルファズル・ジャリリさんの最新作。上映後に会場に来てくれたジャリリさんの印象は昨年とほぼ同じ、あまり年をとってないように思われる。開口一番、「わたしはこの映画祭に来るのがとても楽しみです。フィルメックスはいつもわたしを温かく迎えてくれるからです」といい、その後、本映画祭のディレクターである市山さんに向かって、「市山さんの結婚式にはぜひ出席させてください」などと、いきなりわけわからないご挨拶をしていた(笑)。当然のごとく、会場は笑いの渦、いきなりふられた市川さんはたじたじで、寝耳に水状態、なんでもありの映画祭の一面を見せてもらった。質疑応答は、特に記するような内容ではなかったのでパス。

映画は、ジャリリさんお得意の少年物語。イスラム革命前の(ということは映画を観ながら気づいたことだが)、1970年後半のイラン中央部サヴェーという村が舞台。
少年エムカンはお年頃。音楽、写真、絵画とあらゆることに興味を示す。「勉強一番」が口癖の父親に怒られながらも、笑ってしまうほどに、次々にいろんなことに手をつけていくのは、彼が、規制にとらわれない自由な精神を持っている証拠でもある。そして少年はついに近所に住む少女に興味を持ちはじめた。エムカンはムスリム、そして少女はユダヤ人。ここでちらほらと宗教間の問題を見せながらも、結果的にはかなりポジティブな印象を受ける。画面いっぱいに自由で新鮮な風が吹き抜ける、まるで“体は規制されていても、人間の心にだけは規制がかからない、自由でいられるんだ!”と言いたげだ。全体的にみると、主人公エムカン演じる少年(メフディ・モラディ)の魅力にたよっているところが大きいが、彼のピュアな心を映しだすかのような透明感あふれる美しい映像は必見。また、ところどころに散りばめられた“笑い”が、映画職人の手慣れた極秘技のようにもみえた。



11月23日(日)
東京フィルメックス事務局から送られてくるML「Daily FILMeX」によると、今年のフィルメックスは、Q&Aやトークショー、観客の小屋入りなど、例年にない盛りあがりを見せているらしい。フィルメックス、4回目にしてファンが定着してきたようだ。そういえば、今日観たアモス・ギダイも、硬派な映画にもかかわらず、意外にも多くの人が来ていて会場でわらわらしていたなあ。盛りあがっていないのはわたしだけか? それでもこのようなタイプの映画祭が盛りあがるのは個人的にとってもうれしい。

アリラ Alila
■イスラエル=フランス■2003年■製作・監督・脚本アモス・ギダイ■脚本マリー=ジョゼ・サンセルム■撮影レナード・ベルタ■原作イェホシュア・ケナーズ■出演ヤエル・アベカシス、ウリ・クラウズナー、ハンナ・ラスロ
映画よりも上映後のQ&Aの方がおもしろかった。なんていったら怒られるかな。アモス・ギダイは、その作家性の強さでもって、どうしても見たくなってしまう人なのだが、映画自体ははっきりいって退屈なものが多い。この『アリラ』は、イスラエルの庶民の姿を描いたものだが、コミカルに描いてはいるけれど(というかコミカルに描こうとしている)、どうもアモス・ギダイが硬派でありすぎるのか、あまり笑えない。それでも、映画の根底にある「アモス・ギダイ思想」のようなものが伝わってくるから不思議だ。

また今回ギダイと組んで4作目というレナード・ベルタの撮影は、何というか、ひじょうにコクのある映像だ。映画は、ワンシーン・ワンカットで撮られてあり、全部で40カットで構成されている。この手法は、アモス・ギダイの映画哲学みたいなものが根底にあり、「映画というものは、語ることと同時に“フォルム”である。ワンシーンをワンカットで撮っているのも、映画のなかで、その“時間”というものを見せたかったからだ」と言っていた。また、カメラが、外から家の中へ、内側から外へと途切れなく自由自在に移動しているのは、今のイスラエル問題というものはすべて、公的なものから庶民の私的な部分にまで入りこんでくることから、このような撮り方をしたのだという。つまり彼は、映画とは単純に「見て楽しむ」ものではなく、「見ていることすべてに意味がある」ことを提示しているような気がしてならない。この映画の題名となる“アリラ”は、ヘブライ語で「陰謀」と「お話」という2つの意味があるらしい。



11月27日(木)
やっぱり今年は3本だけで終わりそうだ。ということはこれが最後かも。
アモス・ギダイ同様、フィルメックスお抱え?の映画作家ソクーロフの映画は、上映はじまって20分ぐらいに映写機のトラブルにより中断、約20分後に上映再開したが、終映が1時間遅れの5時過ぎとなった。映画祭にこの手のトラブルはつきもの。最初、上映中に音がバリバリいいはじめたときは、あ、トラブってるなと思ったが、まさか、このような映画祭で映写室に誰もいないはずはないだろう、そのうち直るだろうと悠長にかまえていたら、バリバリギシギシ、まるで録音マイクのそばでミンミンゼミが鳴いているような、耳をつんざくその騒音にキレた人も多かったらしい。数名が会場から出ていき、苦情を言いに行っていた。
しばらくして上映が中断し、映写機がトラブっていること、バックアップの映写機に切り換えることなどのアナウンスがあった。その後、映写テストを行なうため、わたしたちはロビーで約20分ほど待つことになる。上映再開の前に映画祭ディレクターから陳謝があり、終映が1時間ほど遅れるため時間的に無理な人はチケット代を返却すること、また、同じ演目を今度の日曜日に再上映するので、そちらの方が都合がいい人はチケットをさしあげる、ということを言った後、映画は再び頭から上映された。
上映中のトラブルは今までに何度も見てきたが、要するに、トラブルが発生した後のスタッフの対応の仕方でずいぶんとその後の印象も違ってくるのではないだろうか。今回、終映1時間遅れと、冒頭20分ぐらいを2度見た形になってしまったが、映画というものは途中から見せられるほどイヤなものはない。フィルメックスの対応はそれなりに良かったのではないかと個人的には思う。

ファザー、サン Father and son
■ドイツ=ロシア=フランス=イタリア=ニュージーランド■2003年■監督アレクサンドル・ソクーロフ■脚本セルゲイ・ボチェバーロフ■撮影アレクサンドル・ブーロフ■出演アンドレイ・シェチーニン、アレクセイ・ニェイムィシェフ
腐ってもソクーロフである。揺るぎない「格調」というものがそこにある。ソクーロフ独特の靄がかかったような映像はいつ見ても神秘的。父と息子。母親不在の彼らの関係は、ともすれば親子愛・同性愛を越えた何かがそこに存在しているようにも見える。現実に、このような関係が存在するかといえば、きっとないだろう。ソクーロフは夢のなかでこの物語を描き、ひとつの寓話にしてしまった。父はあくまでも強く、やさしく、ただ愛するということで子供を無限に包み込む。息子は、その父を気遣い、頼り切っている。それでも、彼らが見る夢のなかには“お互いが存在していない”、というのは、お互いいつかは離れなければならない存在なのだということを暗示しているかのようだ。息子を肩車したときに「重くなったな」という父親の言葉が哀しい。そうなのだ。こどもは、いつかは抱えられなくなるほどに大きくなってしまうものなのだ。それでも最後に、こんな素敵な父親に新しい女などできないはずはない、などと思ってしまったわたしは不純だろうか。



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