|
11月26日
|
|
会場に着くやいなや、意外にもたくさんの人が会場にいてびっくりしたユーロスペース。やはり「渋谷」という街は人を映画に駆り立てる場所なのだろうか。銀座・日比谷ではお目にかかれなかった今どき風の若者の姿も目に入る。今の時代に、こんな若い人たちがこんな古い映画を観に来るなんて。まあまあそこにお座り、などと思わず席を譲ってしまいそうになる。いかんいかん、こんなところで老婆心なんか起こしてしまっては。
『奇跡』 邦題そのまんまの映画。観終わったあと、呆然としてしまう。いったいこの世の中にこんな事が起きるのだろうか。まあ映画の世界だからね、などと思うわたしはもう既に、ここに出てくる医者や牧師と同類だ。医者は科学の力を信じ、牧師は聖職者でありながらも奇跡なんぞあり得ないとぬかす。最後にこの二人の茫然自失とした顔がざまあみろだが、この類の貴重な作品はぜったい見て損はしない。丘の上に立ちすくむヨハンネスの姿が神々しく、みじんの疑いの心もなく奇跡を信じている少女の、清らかな瞳の前には「俗」な心はかすみ消えゆく。 この映画の原題は「言葉」。もちろんその言葉とは“イエス・キリスト”のこと。日頃あんまり気にしちゃいないが、この“イエス・キリスト”という言葉は、人の名前であると同時に、人間の心(願い)を神の世界へと通すためのパスワードのようなもの。だからこの言葉を唱えると奇跡が生じる、ということは、“イエス・キリスト”というのは人の名前である前に聖なる言葉であるということだ。「神の世界の言語」といってもいいかもしれない。それではなぜ、日頃わたしたちが「イエス・キリスト、イエス・キリスト」と言っても何も生じないのかというと、そこにあきらかに欠けているのは「信じる」こと。つまりこの『奇跡』は、そんなことを描いた作品だったのだ。 |
|
12月18日
|
|
カール・ドライヤーの遺作『ゲアトルーズ』を鑑賞。別に狙ったわけではないが、わたしにとってもこの作品が、今回の「カール・ドライヤー特集上映」の最後に観る映画となった。
一見したところ、かなり退屈な映画だ。話に別にこれといった起承転結があるわけでもなく、単にゲアトルーズという名の女性の「愛を軌跡」を描いているだけのような印象を与える。 ほぼ室内劇で、対話する相手がいるのにも関わらず、お互いの視線は交差せず、動きも少なく、不動のまま台詞を言うスタイルに、ふとストローブ=ユイレを思い出してしまう。夫婦、元恋人であったふたりがソファに横に並んで座っていながらも、まるでそれは他人で、ふたりの間には「時間差」「感情の温度差」による深い溝ができている。無表情に黙々と語る彼女の言葉をもとに、こちとらは暗黙のうちにゲアトルーズという一人の女性の心の内を想像し、探っていくことを要求される。そして想像できなかったら最後、眠るしかない。会場にはぐっすりとおやすみになっていた方がなんと多かったことか! まさか、カール・ドライヤーがこんな映画を作るとは思わず、初の“ドライヤー体験”がこの映画だったなら、もう二度とドライヤーなんて見るもんかと思ってしまうかもしれない。 人は、死ぬ前に無意識のうちに悟るのだということを聞いたことがある。亡くなる前に、自分の持ち物を整理してみたり、長年会っていなかった友人にふと連絡してみたりするのもそのひとつ。装飾を一切排除し、おまけに動きも排除し、ただ台詞のみを重要視した、舞台でもなく映画でもないこの作品を見ると、最後になって、カール・ドライヤーのなかで何かが“純化”したような気がする。それを証拠に、ゲアトルーズの白く輝く金髪と純白の衣裳ばかりが美しく心に残った作品でもあった。 |