イルミネーション ★★
あまりにも暗い映画なのでどうしようかと思った。フランス映画は、南仏を舞台にしたものやパリなどの都会を描いたもの以外は暗さだけが残るような気がしてならない。フランス北部の映画は特にそうだ。この作品もフランス北西にあるブルターニュを舞台にして撮られている。季節は秋から冬にかけてだろうか。春がこんなに寒いわけがない。雨、ひとつでさえ凍りつくように冷たい。個人的にはこの寒さはひじょうに苦手だ。

自閉症気味なのか、主人公のイルデュットは精神科医でセラピーを受けながら漁師の仕事をして生活している。ある日、祖母の付き添い看護婦クリスティナに会ってから、彼のなかで何かが起こる。現実逃避か。夢か。他人と気軽に交わることができないイルデュットは、「彼女」を気軽に話しかけられる現実の女として思い込む。これを幻とみるか単なる妄想とみるか。映画は現実と妄想とが同レベルで描かれるので、その境は定かでない。彼女を現実のものとして見ても筋は通るし、幻と見ても筋は通るからだ。そういう意味では良くできた映画かもしれない。最後にクラブでかわすクリスティナとイルデュットの視線がもしかして、ふたりが直に交わすはじめての視線だったのかもしれないと、今になって思う。

■2004年■出演クレ・ベイエール、メラニー・ル・レ、キャトリーヌ・オラスマン



“男たちと共に”演技するレオ ★
こういう映画が評論家受けするのはわかる。実際に、ポジティブ誌とカイエ・デュ・シネマ誌は★4の評価。でも普通の感覚で見たらおもしろくないと思う。いや別に決めつけるわけではないけれど。

男たちの権力争いの中に巻き込まれ翻弄される富豪の息子を描いた作品とチラシには書いてあるけれど、どちらかというと、なにか代々受け継がれた悪の因縁によって、運命的に堕ちてゆくある富豪一家といった感が強い。その「欲」と「権力」によって身を滅ぼすのは昔からありがちなテーマだ。
手持ちカメラで撮られたリハーサル風景と、現実に映画になったときの映像とが混ぜ合わさり、コラージュのように1本の作品としてできあがっている。実験的ではあるけれど、今さらこのような手法が効果的とは思えない。わたしのフランス語の理解度が低かったのもおもしろくなかった原因のひとつだが、あまりに素直でないスタイルにちょっと辟易、映画のなかで意図されていることが、紆余曲折しながら届いてくる。不本意な惑わされ方だ。デプレシャンってこういう映画を撮る人だったっけ。

また、ずいぶんとマッチョな印象を受ける映画でもあった。登場人物は男ばかりで女は出てこない。そのせいかどことなく生命力が薄く、不毛的なものを感じるのも事実。
富豪の元に養子として育てられた息子レオナールを演じるのはサミ・ブアジラ。ちょっと顔は強面だが、彼の存在感は印象的だ。久々に見るイポリット・ジラルドは相変わらず魅力的ではあるが、頭が後退しつつあるのが少々気になった。


後日追記:「登場人物に女は出てこない」と書いたが、後になって思い出した。アナ・ムグラリスがレオナールの恋人役として出てきたのだ。だがしかしその役どころは、レオナールに邪険にされながらも彼を愛している女性の役で、わたしは何故彼らがこういう関係になったのかがわからず(たぶん金がらみだろう)、またアナ・ムグラリスはただ美しいだけで印象的なものはなく、彼女の存在をすっかり忘れてしまっていた。

■2003年■出演サミ・ブアジラ、ジャン=ポール・ルシヨン、イポリット・ジラルド、ラズロ・サボ



CLEAN ★★★
いや〜、ベアトリス・ダルの格好良さったらもう! サラサラのロングヘアーが妖怪のようで素敵。画面に出てきたときから目が釘付けになるほど彼女には不思議な(強烈な)オーラがあって、主役のマギー・チャンが脇役に見えたよ! わたしは彼女の一挙一動ぜんぶ真似したーい!(て、わたしはストーカーか)。私生活においてベアトリス・ダルがドラッグ漬けなのは有名なところで、そんな彼女に、洋服の売り子という「普通の仕事」をあてがわれ不満をこぼすマギー・チャンに“ジャンキーよりもいいわよ”なんて台詞を言わせる。アサイヤス、あんた、冗談でしょ。笑ったぜ。この映画の題名「CLEAN」は、悪妻+悪い母親+薬漬け+前科ありの生活から、まっとうな人生を歩むため、そして息子といっしょに暮らせるようになるため、文字通り“クリーン”になっていく女性の姿を描いているのだが、悪いことはいわない、ベアトリス・ダルだけはクリーンにならずにそのままでいて欲しい。でも体だけは大事にしてね。

主役そっちのけ、いきなりベアトリス・ダルのこと書いてしまいましたが、彼女が本当に主役を喰ってしまったわけではなく、単にわたしの好みです。主役のマギー・チャンも思いのほかすごく良くて、さすがカンヌ最優秀女優賞を獲るだけあるなと納得。今までの彼女のイメージからちょっと離れ、肉声で物を言う姿が、ただ綺麗なだけの女優ではなく、ひとりの生身の人間が見えてきてとても良かった。確か上映前のアサイヤス監督の挨拶で、「映画の中では俳優の内面的なものをも描きたい」ようなことを言っていたのでうなずける部分もある。でもマギー・チャンに関してはある意味、元旦那だからこそ成功したという気もしないでもない。

この映画は現時点(2005年1月)ではまだ配給がついてないらしい、というのを知ったのは当日で、チラシに日本語字幕付きとあったので、わたしはてっきり誰かが買っているものと勘違いしていた。この字幕は、今回のカイエ・デュ・シネマ週間のために特別に寺尾次郎氏に依頼し、アテネ・フランセ文化センターのスタッフの強力を得て、スライド式で字幕がついたものらしい。このような内容の映画は字幕がなくても理解にさほど困るものでもなさそうだが、やっぱり字幕があった方が理解度が高いのは事実。この映画の字幕に関わったスタッフの方々お疲れさまでした。

この映画が日本公開されるかどうかわからないけど、一般公開されるとなると、カイエ・デュ・シネマ週間ファンだけでなく一般の映画好きも観に来るので、たぶん評価はもっと低くなるだろう。ひとつ甘いなと思ったのは、ニック・ノルティ演ずるお爺ちゃんで、最初から最後までエミリー(マギー・チャン)に肩入れしているあたりちょっと不自然さも感じたり。わたしのなかではニック・ノルティといえばアクション映画、タフガイ刑事や荒くれ者、その物の壊し方もはんぱじゃなく、常に女がつきまとう(いや、彼がつきまとうのか)。その彼がエミリーにやさしくするのは、孫のためというより、なにか別な魂胆がありゃしないか?と妙な考えが頭をよぎる。ここでガツンと一発。“俺の女になったら援助してやる”などという台詞が出なかったのが意外。(そういう映画じゃないんだよ)

また、上映後のトークは、監督のオリヴィエ・アサイヤスと樋口泰人氏(映画評論家、カイエ・デュ・シネマ・ジャポン編集長)との対談だったが、樋口氏が映画の挿入歌にブライアン・イーノを引用していることに注目し、そのことだけを焦点に当てて話を進めていたがその実はあまりおもしろいものではなく、彼の音楽に対する造詣の深さが裏目に出てしまったという感が強い。音楽のことを知らない観客にはピンとこなかったのではなかろうか。わたしはブライアン・イーノこそ知ってはいるものの、トークで聞きたかったのは実際に映画に関わることだったりしたので退屈し途中で退場。最後までトークを聞かずに出てきてしまった。あれからそのままずっと音楽の話でいったのだろうか、それとも少しは映画の話をしたのだろうか。

■2004年■マギー・チャン、ベアトリス・ダル、ジャンヌ・バリバール、ニック・ノルティ、トリッキー


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