CAHIERS DU CINEMA 2004
第9回カイエ・デュ・シネマ週間
■2004年1月9日〜31日 ■東京・飯田橋「日仏学院エスパス・イマージュ」

[東京日仏学院HP]

この「カイエ・デュ・シネマ週間」は、毎年、フランスの映画雑誌である「カイエ・デュ・シネマ」の批評家を迎え、フランス映画の新作を紹介しながら映画について考えるイベントのひとつ。今年はステファン・デロームが、若手監督ベルトラン・ボネロの長編3本をひっさげてやってきてくれました・・・ とはいっても、わたしはステファン・デロームという評論家は全然知りません。ちょっとお堅いイメージの「カイエ・デュ・シネマ」を、日本版も含めてわたしはほとんど読まない。きっと読めばためになるのだろうが、映画を観る楽しさと同じように、雑誌にもついつい楽しさを要求してしまう。はっきり言ってしまうと、カイエ・デュ・シネマはおもしろくない雑誌だ。一時は存続の危機にさらされたのもわかる気がする。今回は都合がつかず、ステファン・デロームのトークショーにも参加できなかったので、映画の感想のみとなります。


【観賞作品】

ポルノグラフ
ティレジア ★★★
マリーとジュリアンの物語 ★★
囚われの女 ★★



ベルトラン・ボネロ監督作品
ポルノグラフ LE PORNOGRAPHE
2001年の作品。わたしは2年前の「カイエ・デュ・シネマ週間」で上映されたときに観ているが、個人的にはあまりいい作品とは思えない。主役のジャン=ピエール・レオーを目当てに観たせいかもしれないが、簡単な感想を「ねこたま倶楽部」の方に書いてあるのでそちらの方をどうぞ。これを機に少し書き直してみました。


ティレジア TIRESIA
カンヌ国際映画祭でコンペ入りした2003年の作品。
ある意味異質ともいえる不思議な雰囲気をもった映画だった。シンプルな作りになっているけど、多様な側面を持つ映画なのでいろんな解釈ができるだろうと思う。上映後には監督ベルトラン・ボネロを迎えてティーチ・インがあったが、この日は、映画を観たあとに監督の講釈はあまり聞きたくなかったのでそのまま退場。監督のフォローがないので違う解釈をしているかもしれませんが、個人的に、映画というものは観た人それぞれの解釈でよいと思ってるので、わたしが感じたことをそのまま書きます。

ギリシャ神話のなかの盲目の預言者テイレシアス(Teiresias)の話が軸となっているらしい。映画自体は二部構成になっており、前半を性転換者ティレジアと、彼を監禁し「鑑賞
*」する男とのエピソード。後半は、目を潰されて捨てられたティレジアが村の娘に介護されながら預言の才を得ていくエピソード。

この映画のなかでは、前半と後半と、二人の違う役者がティレジアを演じており、さらに彼の運命を決定づける二人の男(監禁者と村の神父)をローラン・リュカがひとりで演じている。
ひとりの人物を二人の役者が演じるというので思い出すのが、ルイス・ブニュエルの遺作となった『欲望のあいまいな対象』
**だが、変態ではあるが、ある意味単純なブニュエルの作品と違い、この『ティレジア』では二面性がいくつも出てくる。これは監督ベルトラン・ボネロの複雑さというよりは、多面性を持つ人間の宿命的なものがテーマになっているからではないか。それを証拠に、たびたびバックに流れてくる曲はベートーヴェンの交響曲第7番である(わたしはこの曲を聴くと「宿命」という言葉を思い出してしまう)。見ていると、ひとつの話のなかで二面性***が二つ以上あると混乱する向きもあると思うのだが(つまり収拾がつかなくなるという意味で)、この映画では、それが逆にいろんな解釈ができる側面が生まれてきて、作品自体に深みを与えている。

またローラン・リュカが演じる二人の男をどう解釈するかによって、この話の意味が違ってくるだろうと思う。個人的には、監禁者と神父は別人であり、ローラン・リュカがなぜ二役をしたのかといえば、結局、ティレジアが“男によって傷つけられて死ぬ”という宿命の人間であったため、所為をした人間を同じ人が演じただけのことだと思う。そういう意味ではシンプルではあるけれど、同時に複雑さをも生む。なお、登場人物のなかで唯一二面性を持たないのは村の娘の父親だけだ。彼だけが、この映画のなかではまっとうな人間だったような気もする。よって、父親がいることで、映画のなかに安定性も生まれている。


*「鑑賞」という言葉には3つの要素が含まれているという。「享受」と「観賞」と「評価」である。日仏においてあったチラシには、ティレジアを監禁する男が“耽美主義者”であると書いてあったが、わたしは単に“観賞主義者”だと思う。男は美しいティレジアを監禁(=享受)し、まるで水槽で飼っている熱帯魚のように、文字通り覗き窓から「観賞」する。そして次第に醜くなっていくティレジアを「評価」できなくなったので捨てたのだ。その所為はまるで枯れた薔薇の花を庭に捨てるかのようである。

**キャロル・ブーケが純情な乙女、アンヘラ・モリーナが娼婦のような悪女を演じている

***二面性:ティレジアの男娼と予言者の二面性、性転換したティレジアの両性具有の二面性、ティレジアを介護する村の娘の乙女と娼婦の二面性、村の神父の聖職者と犯罪者の二面性。なお、二人の男を演じるローラン・リュカは二面性をあらわすものではなく、ティレジアを傷つける男が同一人物であると見せかけたかった監督の遊び心だと思う。



マリーとジュリアンの物語
■L'Histoire de Marie et Julien■2003年■監督ジャック・リヴェット■出演エマニュエル・ベアール、イエジー・ラジヴィオヴィッチ
不思議な浮遊感。時間がとまったような感覚が全体に流れる。この空気感の意味は映画の最後に明らかになるのだが、壊れて動かなくなった時計を直す時計職人ジュリアンが、ときどき、止まった時計を動かしたりするのがこの映画の本質ともいえる。現在の針は前向きにしか進まないが、時計の針は逆回しにもできるもの。

良くも悪くもジャック・リヴェットの映画だった。ジャック・リヴェットの映画に当たり外れはない。あるのは、彼の作風に対して自分が合うか合わないかだけだと思う。彼の作風を言葉にするのはむずかしい。単調でもあり複雑でもある。曲折しているようでもありストレートでもある。見えにくい本質。なんでもないものを真剣に描いている思わせぶりな姿勢。初めは何がなんだかわからないが、次第にじわじわと見えてくるテーマ性がスリリングに感じるときもあるが、大半は、なんだこんなことだったのか、と拍子抜けしてしまう。退屈だと感じるときもあるだろう。

時計の修理屋ジュリアンと、何処からともなく現われる不思議な女性マリー。この二人が惹かれあうのはなぜか。それは生きることへの“渇望”である。ジュリアンはそのモノトーンな生活に満足しながらも、心のなかで、魂のレベルで“生きたい”と願っている。マリーは
(ネタばれ。ドラッグして読んでください→)生と死の境に存在している魂として、本当の生命を得たいと思っている。彼女の魂は「現在」にあるが、肉体は既に「来世」にあり、その証として命の象徴である「血」を持たない者として描かれる。 そんな二人が共鳴しあったとき、当然のごとく激しく愛しあうことになる。ジャック・リヴェットが、SEXシーンは絶対欠かすことができない、どうしても必要なものだったと言っているように(Les Inrockuptibles no.415参照)、何度となく描かれるSEXシーンが、このシーンのみが、単調な世界のなか、ふつふつと悦び溢れる「生命」をとしてわたしたちの目に写る。エマニュエル・ベアールはこの映画のなかではほとんど演技をしなかったと言っている。マリーがエマニュエル・ベアールであり、エマニュエル・ベアールは、その存在だけでマリーになることができた。ある意味うらやましい話である。

なお、重要な脇役としてアンヌ・ブロシェが出てくるのだが、彼女が登場してきてすぐ、見覚えのあるその顔としゃべり方に、どこで見たんだったか?と一生懸命思い出してたら、一時映画に集中できなくなってしまった。あ!ロクサーヌ
*だ!と気がつくともう、彼女が出てくるたびにロクサーヌだロクサーヌだ!とひとりで盛りあがっていた。


*アンヌ・ブロシェは、ジャン=ポール・ラプノー監督の『シラノ・ド・ベルジュラック』でロクサーヌ役として登場。シラノ・ド・ベルジュラック役はジェラール・ドパルデュー。


囚われの女
■La Captive■2003年■監督シャンタル・アッケマン■シルヴィ・テスチュ、スタニスラス・メラール、オリヴィア・ボナミ


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