ウィンブルドンの階段 ★★
LE STADE DE WIMBLEDON/2001年/72分/監督マチュー・アマルリック/出演ジャンヌ・バリバール
フランス語英語字幕のときはフランス語を聞き、イタリア語のときは、やむなく、わからないながらも英語を読む、という結構ハードな環境のなかで観た。それでもストーリーの理解度にはほとんど支障はなかった。それもそのはず、ストーリーというものは特になく、どちらかというと人の姿を追ったロードムーヴィに近い。
ジャンヌ・バリバール演じる女性が、ちょっと前に亡くなった Bobby VOLHOR という作家のことを探るべくイタリア・トリエステに旅立つ。作家の友人・知人にいろいろと話を聞いていくうちに、彼女自身のなかにその作家の像がだんだんとできあがっていくが、一番肝心なことが見えてこないために次第に悶々としていく。

物事を探求していくということは、多かれ少なかれこういうことなのかもしれない。物事を探求しているつもりでも、実は自分の内側の探求の旅であったりする。もともとちゃんとした形のないものを、膨大な資料と調査力とで補ってみても、そこには何かが欠けてしまう。どこで区切りをつけたらいいのか、何が確かなものなのか。自分の空洞を埋めるつもりではじめた「癒し」の旅も、段階を追うごとにまた別の空洞が増えていく矛盾。

絶え間なく移動する主人公の女性。その動きはほぼ衝動的ともとれ、考える間もなくイタリアの街をあちこち移動する。まるで見ながらにしてイタリア旅行に連れて行ってもらったようだった。
映画として観てみると撮影の素晴らしさが第一にあげられる。もし映画がわからなくてもこれだけでも充分楽しめる。そして主役のジャンヌ・バリバールの美しさがひときわ際立っていたものの、個人的にはいまひとつ監督の意図が読み切れず、主役の女性同様、こちらにもぽっかり穴が空いてしまった。そしてラストの、建設中(もしくは整備中)の、空虚なスタジアムをじっと見るバリバールの姿にこの映画の本質を見る。



ウェッシュ、ウェッシュ、何が起こっているの? ★★
WESH, WESH, QU'EST-CE QUI SE PASSE ?/2001年/83分/監督ラバ・アムール=ザイメッシュ/出演ラバ・アムール=ザイメッシュ、アメード・ハムディ、ブラヒム・アムール=ザイメッシュ
おおよそフランス映画を観ている感覚ではなかった。

全編手持ちカメラで撮られたようなドキュメンタリータッチのこの作品は、監督ラバ・アムール=ザイメッシュが自分の家族とともにつくった自主製作映画。ラバ・アムール=ザイメッシュという名前が示すとおり、彼は純粋なフランス人ではない。マグレブからの移民だろう。

これは、フランスで“バンリュー”と呼ばれる都市郊外にある集合住宅に住む移民たちの姿を描いたもの。この手の作品でまっさきに思い浮かべるのはマチュー・カソヴィッツの『憎しみ』だが、今思うと『憎しみ』の方は音楽といいストーリー展開といいかなり映画的な仕上がりだったのだなと気がついた。
対してこちらの方は、その“バンリュー”に住む移民たちの、飾りっけのない日常の姿がありありと伝わってくる。仕事もせず寝てばかりいる息子を叱る母親(彼女はフランス語を話さない)、その息子はヤクの売人として界隈一帯を仕切っている。仲間同士の喧嘩、なわばり争い、サツへの密告、逃走・・・一見のどかな雰囲気の“郊外”も、そこには奇妙な緊張感が昼夜問わず漂っている。
そして彼らの話すフランス語は、どことも知れない訛のあるフランス語で、さらに俗語がそれに混じり、覚悟はしていたがかなり理解に苦しむ。

また“ドゥブル・ペイン(double peine)”と呼ばれる「二重の刑罰」のこともしばしば会話の中に出てくる。“ドゥブル・ペイン”とは、外国籍者が軽犯罪を犯した場合、禁固・罰金などの懲罰に加えて、本国に強制送還されることを指す。主人公カリムは、身分証明書がない上(つまり不法滞在者)、この“ドゥブル・ペイン”のため職を得ることもできず、警察からつけねらわれている。

映画的にみると、後々まで残る印象深い作品とはいいがたい。
ただ、しゃれたフランス人シネアストがつくった作品とは明らかに一線を置いた、素の感覚でもって映画を撮るという意味では新しいのかもしれない。



亡霊 ★★
FANTOME/2001年/93分/監督ジャン=ポール・シヴェラック/出演ディナ・フェレイラ、ギヨーム・ヴェルディエ、エミリー・ルルーシュ
あんまり面白味のない作品だったが、こういうのもありなんだな。

今まで普通に生活を送っていた人が、ふいと姿を消し、以来消息を絶つ。着ていた服は脱ぎ捨てられ、文字通り“肉体が跡形もなくなくなる”のだ。
事故か?失踪か?
その原因はわからないままに、いや原因がわからないからこそ人々は噂し、この奇怪な現象を恐れはじめる。

“次は自分かもしれない”

なんの因果か。こんな不可思議なことが当たり前のように起こってしまったら、誰でも恐怖感を覚えるものだが、なかに“わたしも彼らのように消え失せたい”と思う女性が出てくる。
実はわたし、この女性に奇妙にも同感してしまった。
このように、苦しみもせず、ふいとこの世から消え失せることができたらどんなに幸せだろう。
生きている間は、あれもしたいこれもしたいと思う。やりたいことがありすぎて、まるで「生きる」ということは、これらの煩悩を満たすためにあるようなものだ。いったいどれくらいの人間が、自分のやりたいこと全てし終わってこの世を去ることができるだろう。人間はやり残したことがあるからこそ、死ぬときに未練が残る。それを思ったときに、電話している最中に、異性と寝ている間に、街を歩いているときに、時空の切れ目から異次元にちょっとだけ“移動”するように、ふいといなくなることができたら(これを死と呼んでもいいが)どんなにいいだろう。

映画は、人々が感じている奇妙な恐れを、暗めの映像と不思議な時空間で表わしている。死んだはずの人が肉体を持って目の前に現われたり、遍在する人まで出てくる。
全体的にインパクトが薄く、意図的にわかりにくい作品だったので、今では主役の青年の名前もすっかり忘れてしまったが、最後に、この青年が海で出会った女性に「君の名前はなに?」と聞く。彼女は海の中できゃっきゃ泳ぎながらはっきり答えずにいるものだから、青年は自分も海に入りながら思いつく限りの名前を言う。そして最後に行きついたのが“Aimee”という名前だが、「Aimee=愛する」という意味の、いかにもというラストに、今までさんざん亡霊なんぞ見せておいて結局これが言いたかったのか、と気づいたときちょっと興ざめしてしまった。




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