下田市への空襲


 湾岸戦争・アフガン戦争・世界貿易センターへのテロ・イラク戦争などのニュース・レポートが

 茶の間のテレビに飛び込んでくる。戦争体験のない若い世代にはゲーム感覚なのでしょう。

 つい60年前の第二次世界大戦では、米軍による空爆で日本の各地は大被害を受けた。

 身内の誰かは戦災で被害を受けた筈。 

 その記憶が薄れてきている現在、次の世代に、語り継ごうという人達がいます。



県下の空襲T ー 静岡・浜松・沼津・下田・島田

 発 行 日  1999年5月1日  改 訂  2002年12月5日
 編 集 ・ 発 行  静岡平和資料館をつくる会  展示部
 連 絡 先  〒420-0838 静岡市相生町6−20中央ビル2F 静岡平和資料センター
 TEL/FAX: 054 − 247 − 9641 
 E−mail :shizuoka-heiwa@nifty.com
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下田空襲とは

1 ー 東京方面を爆撃するB29の通り道


 戦争末期、下田は伊豆七島や小笠原諸島への兵員・物資の輸送基地となり、また本土決戦のため

 特攻基地が配備された。関東地方の大軍需工場を爆撃するB29は、相模・駿河両湾を通って目標地
 へ向かうことが多かったため、10数回にわたって激しい空襲にさらされた。


 4月12日の空襲は下田最大の空襲で、河岸の陸軍兵士めがけてB29から爆弾が投下された。
 兵隊の補か56名もの民間人が爆死し、多くの家屋がなぎ倒された。


 6月10日には、了仙寺に集合していた海軍特攻隊震洋隊の隊員や住民など10数人がB29の
 爆撃によって爆死。  8月8日にも民家などが爆撃され10名が爆死している。


 海軍の艦載機による爆撃は、7月30日と戦争が終わる2日前の8月13日だった。
 朝から戦闘機の波状攻撃が港の輸送船を次々襲い、15日の朝も執拗に繰り返された。



 下田の空襲は、爆弾によるすさまじい空爆と艦載機による銃爆撃が主で、焼夷弾の投下は
 2回だけだった。

 このため町は焼失を免れたが、100名近い町民の尊い命が奪われた。


 下田に疎開していた日本画家・太田 聴雨(おおた ちょうう)は、
 疎開先である鍋田浜の家から見た光景を、スケッチブックに残していた。

 6月10日の了仙寺境内の空襲で亡くなった人々を浜で荼毘にに付している絵である。


2 − 輸送基地・特攻基地としての下田


 戦局の悪化に伴い、
 下田は伊豆七島や小笠原諸島の軍への輸送基地としての役割を果たすようになった。

 1945年に入ると、本土決戦にそなえて本土防衛軍が組織され、


 海軍では3月、浦賀から遠州灘にかけての海岸線を守る第一特攻戦隊が組織された。
 これらの部隊は突撃艇 ー 海龍、回天、震洋 を有していた。


 3月下旬、その配下の第16突撃隊(第16嵐部隊)の本部が下田におかれ、
 和歌浦などに震洋隊が配備された。


 「震洋」は爆薬を抱えたベニヤ製のボートで、一人乗りと二人乗り用があった。
 緑色に彩色されていたので、通称「青ガエル」と呼ばれた。


 沿岸には、震洋の格納壕や機銃陣地、砲台などが構築され、本土決戦に備えた。
 震洋の格納壕の幾つかは、現在もその姿をとどめている。


U ー 5−3  空からの目・米軍資料


 米軍資料によると、下田にたいする陸軍の空襲は「飛行場」を除いて10回位で、
 そのほとんどが単機のB29による爆撃である。


 唯一、目標設定されたのは飛行場であるが、周囲に飛行場は存在しないことから、
 白い砂浜を飛行場と見間違えたのかもしれない。


 主な空襲を、作戦任務報告書(陸軍のB29)と航空戦闘機報告書(海軍の艦載機)から見ると、
 
 ◆ 4月12日の下田最大の空襲は、中島飛行機武蔵製作所爆撃への途中
 ◆ 6月10日の下田第2の空襲は、日本飛行機富岡工場への途中
 ◆ 8月1日の焼夷弾による空襲は、八王子空襲からの帰途

 爆弾攻撃は、川崎石油コンビナートからの帰途


 ◇7月30日の海軍艦載機による港湾・下田市内への空襲は、
 御前崎沖南南東海上約190kmから飛来したF6Fによるもの

 ◇8月13日の艦載機攻撃は、
 銚子沖東海上約200kmの空母エセックスから、F6F,F4U,SB2Cによるもの


 下田空襲は、中島飛行機や富岡、立川など航空機工場爆撃の往来で爆撃が多く、
 爆弾による被害が多い。

 焼夷弾空襲は、6月18日の浜松空襲と8月1日の八王子空襲のみである。


 このように、下田への空襲は、東京方面を目指す爆撃機の通路ともなり、
 輸送船や基地などは、往来の途中の格好の標的となった。


1 被害家屋見取り図の復元


 戦後50年に、下田市は「下田空襲による死没者および被害家屋の見取り図」を完成した。


 4月12日の空襲で、お母さん、弟さん、おじさんを亡くし、家をも木っ端みじんに吹き飛ばされたという
 山下冨美子さんは、学校から帰ってその惨状を目のあたりにした。



  「・・私の家は直撃にあって入り口に大きな穴があいており、朝学校に出かけた家はなく、

 大きな横柱が道路にのっかっている状態で、瓦礫の山でした。『座敷の方に母らしい人がいる』と

 言われて行ってみました。


 母は丁度モンペと活動着の間に伊達締めをしていましたので、
 それで遺体の確認がとれた次第です・・」

                                           (下田市 「海鳴り」より抜粋)



県下の空襲 U ー 静岡・清水・由比・蒲原・富士・下田・稲取

 発 行 日  1999年5月1日  改 訂  2002年12月5日
 編 集 ・ 発 行  静岡平和資料館をつくる会  展示部
 連 絡 先  〒420−0838 静岡市相生町6−20中央ビル 2F 静岡平和資料センター
 TEL/FAX: 054 − 247 − 9641 
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下田・稲取への艦載機攻撃ー撃沈下田の「まるゆ」 (8月13日)


 1945年2月、硫黄島がアメリカによって占領され、本土ぼうえいの前線となった伊豆七島に、
 食料や弾薬を運んだのが、陸軍の潜航輸送艇「まるゆ」だった。


  下田港や稲取港はこの「まるゆ」の基地とされた。
 13日午前7時過ぎ、下田市の鍋田浦に停泊していた


 「まるゆ8号艇」は、突然、襲ってきたグラマン機の爆撃により大破し沈没。
 若い乗組員の10名が爆沈した。


 後年、地元の人々の協力により、
 海中の遺骨を収集して慰霊祭が行われ、7年前に慰霊碑が建てられた。

 ガ島の攻防戦がきっかけとなって、陸軍は潜航輸送艇の研究を秘密裏に陸軍第7研究所に命じた。


  その後、日立製作所や日本製鋼所など4つの工場で39隻が建造されたが、
 沈没した「まるゆ8号艇」は、八丈島へ7回の輸送を成功させるなど、もっとも活躍した艇だったという。 

 両港は特攻艇「震洋」の基地でもあった。


 米軍の戦闘報告書によると第38機動部隊は、8月13日には、銚子沖当方約200km海上の
 エセックスから、F6F,F4U,SB2C,TBMが出動し、下田・稲取を攻撃した。


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