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身体について、舞踏・ダンスについて、暮らしについて、、、鈴木ユキオが思うこと
スリルを持続させるのは難しい。
試みや実験はもちろん必要だけれど、
それを超えて、そんなこと考えずに見れることをやりたい。踊らなきゃ(2008.4)
僕の作品の場合、細かい振りとしてどうの、というより、
共通の感覚を持てるか、が大切なのでそこに到達するまで、
何度も何度もやってもらう、時にはあおるというか、厳しく挑発もする。
感覚というのは、言葉で説明して、理解しても、実際に身体に現れる、あるいは身体が理解するのには、
時間がかかるものなので、これに時間を割いているといってもいい。
でもそこまで到達してしまえば、自由になれるというか、そこまでいくと段取りとか、振りとかを越えてしまうのよね。
そんなことより、身体が見えてくる。切実さが、説得力、必然がでてくる。
そんな作品を作りたいと思っています。(2007.9)
裏切れ 裏切れ 安全な方に進むな 裏切れ
ときにして、我々は自らで自分自身を裏切らなければ、見るもの(=観客)を驚かすことなんてできない
(2007.6 カンパニー稽古より)
言葉がでない。理由はわかってるんだ。自分の感覚が先に進んだから。
いままでの言葉では、現せなくなってしまったよう。言葉が追いつかない。
言葉の終わったところからダンスははじまるんだって、誰かが言ってたような。うん、そんな感じかも。
自分が生きてることの不思議にやっときづいたもの。目という穴からのぞいている、感覚。
でも僕はというと得体の知れないものとしてからだの中から外をうかがってる。
周りは風景となり、自分というものがあるとあたりまえのように信じていたのに、この感覚。
迷子のように、意識がさまよう。これはこれで楽しくもありついつい夢中になる(2008.4)
「からだ」の可能性?
考えれば考える程わからなくなるのです。考えれば考える程何も出来なくなるのです。
自由とは? とらわれないこと 素直にそこに立ち 耳をすまし 目をひらく
ただ眺め 呼吸する かたくなにならないように
心地よい時間と緊張が生まれる 切実さは充分ある
繊細に耳をすまそう 詩的で残虐とは美しさのことだろうか
(2007.9「沈黙とはかりあえるほどに」パンフレットより)
とにかく身体で、踊りを踊りで超えたい、って思ってる。アンチだけでなくね。(2007.10)
ドキュメンタリーの奏で方
舞台で何をしたいのだろう?踊りたいのかな?
踊る こ と が すき な とき も あった
何が見たいのかな? 完成されそうな、何かが生まれるかもしれない、ぎりぎりの場所や瞬間を覗いてみたい。
だから完成もない。個としての在り方。個と個をそこに置くこと。違和感、ズレ、関係とは無も含む。
どうなる?偶然の自由を取り込みながら、僕の視点と個の一致点を模索すること。
そのためのほんの少しの流れをおこすこと。
(2007.9『演出家の言葉』「沈黙とはかりあえるほどに」プレスリリースに寄せて)
灼熱と不安のなかで、夏も終わりに近づく中、
チョウの幼虫が灼熱のアスファルト坂道を転げ落ちていた。熱さにからだがよじれていく。
まもなく蟻たちが嗅ぎつけるであろう、死の予感。
生き、て、い、く。生き、抜、け、る、ということは、奇跡に近い。
(2006.12「犬の静脈に嫉妬せず」創作ノートより)
自分にとって、何がひりひりさせるものなのか
何が心をとらえてはなさないのだろうか
沈黙に身体を横たえ、空を眺め、境界に目をこらし、耳をすます――
(2006.12「犬の静脈に嫉妬せず」パンフレットより)
自身は、舞踏のイメージから逃れようと、舞踏ではない何かを掴もうとあがいてきたように思う。
しかしながら、未だに、新しい方法論を確立させた訳ではない。
混沌とした迷宮に入り込んだまま、出口などではなく入り口に戻ってしまう事の繰り返し。
否定、アンチ、することで乗り越えてきた歴史も、その方法論自体が成立しにくい時代である。
「何でもあり」になってしまった。本当に「何でもあり」なのか。
舞踏が生まれ30年後に出合った私の前には、多様化が進み、既にクラッシックとしての舞踏もあり、
舞踏じたい乗り越えなければいけないのではないかという疑問がうかぶ。
そして舞踊を否定することで乗り越えつつ、舞踊を舞踊することで乗り越えるのも試みになりうるはずだ。
否定し逸脱していく事と、肯定した上で更に逸脱していく事は正対照であり、つまりイコールなのではないか。
この相反するふたつの事は同時に成立しうるのだ。
沈黙とひびきあい、瞬きもせず、瞬間の時間は永遠のように、一瞬に焼きつく。
(2006.10「犬の静脈に嫉妬せず」創作ノートより)
“金魚”の舞台は、楽しい、かわいい、みたいに見られることがありますが、
僕は、いつも、それだけでなく、ふとした瞬間に立ち現れる怖さや個々の身体の強度を目指している。
親しみやすい一方、人間の手が加えられ、奇形になった、グロテスクなものが珍重される“金魚”。
そういう価値観の変化や転覆って面白いと思う。
(2006.10月号「DDD vol.8」インタビュー記事より)
舞踏を続けるうち、自分でも新しい踊りを作り出さなければいけないと思った。
過去の形式を破るところから始まった舞踏が、
逆に「舞踏」という型に縛られるようになってしまった。
土方巽も今までの踊りを否定し、新しい表現をつくってきたわけだから――。
(2006.12.3「中日新聞」インタビュー記事より)
言葉にして人に伝えることで、作品や思想は、より鮮明になるだろう。
しかし言葉にする大切さと同時に、言葉にした瞬間から、自分の中ではそれが過去、あるいは違和感になり
もう自分は次に向かっているんだ、と感じる。
やはり創作の段階では、もっと曖昧で自分自身でも掴めていないものを直感で作品にしている部分があって、
すべてが終わってから、自分も観客のようにあの作品は何だったのだろうか、、、と考えることの方が、本当だと思う。
わからないものを分からない状態で掴み、作品にする。
分かってしまったらあまりわくわくしないし、わかられてもまた逃げたくなるものです。
人間はもっと複雑ですべてが説明できるものではないとも思っています。
(2007.3「アジアダンス会議2007」報告書より)
「生」と(死)に興味がある。
いかに「生」を感じるか、それを舞台で感じさせ、また自分自身、そこで「生」(=リアリティ)を獲得できるか。
「舞台で生きる」ということを体現したい。(2007.1)
作品、踊り、生活とは、考え方であり意志である。(2007.1)
逆へ、、逆へ、、流れとは逆へ、、、
遠くへ、、遠くへ、、
深く深く、、より深く、、
いろいろな「もの」「ところ」から独立していなければならない (2006.4)
詩的で残虐、野生的であること、ひりひりと切実であること。考えることと実践すること。(2007.1「アジアダンス会議2007」アンケートより)





